夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

概念とは何か(ノート3)

2009年06月12日 | 概念論
概念とは何か(ノート3)

概念とは何か。それを比喩的に言えば、概念とは観念的な種子のようなものである。植物にたとえるならば、その種子の中にはレバノン杉や椎の木やダイコンやニンジンの設計図が含まれているのである。現代科学はその設計図の構造をさらに解明して、それを遺伝子の配列として捉える。

動物においてもまたその設計図は、卵子や精子の中に含まれる染色体の中の遺伝子の構造として設計されている。そして、それらの種子や胚珠はやがて、熱、光、水、空気など生育に必要な環境と条件が備われば必然的に萌芽するのである。その鉄の必然性は誰にも押しとどめることが出来ない。

そして、自然界における最高の概念的な存在こそ「自我」である。「自我」あるいは同じことだが「意識」、あるいは「精神」といってもよいが、それは現実的で具体的な生ける「概念」である。

そして、自我による最高の作品が国家である。国家は人類の創造しうる至高の芸術作品であるということができる。

自我も意識も「精神」として、いずれもその思考において、設計図を描くことが出来る。建築家はその頭のなかで構想した住宅の設計図を青写真にすることによって、建築物の「概念」を構成する。そして、この「概念」は、木材、セメント、鉄骨などの素材を得ると、現実に住宅として存在するようになる。画家や彫刻家も白いキャンバスや大理石を前にして、それぞれ美の概念を具体化する。

ヘーゲルなどが用いる概念という用語は、単なる抽象的な普遍的な観念のみを意味しない。単なる共通性にすぎない普遍性と真の普遍性は明確に区別されている。

また、この概念は人間の単なる観念的な生産物を意味するだけではなく、自分自身を産み出すものである。聖書においては神は精神(Geist)であり、万物を創造する主体でもある。言うまでもなく、キリスト教においては三位一体の神として、神は精神として認識されている。

そして、聖書の神話においては、智恵の実のイチジクを食べた人間のみが神に似た存在として、単なる動物とは異なる「精神的な」存在として捉えられている。この人間の自我の、意識の、精神の本質的な構造をもっとも深く分析したのはヘーゲル哲学の仕事であるということができる。しかし、このヘーゲルの概念論を正しく理解し得ているものは今日おいても誰もいないのではあるまいか。彼は忘れられた思想家で、今なお誰もその灯火で明るみに出すことの出来ない、暗黒の彼方にある哲学者である。



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