夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

グローバリズムと日本の伝統

2008年11月08日 | 国家論

 

グローバリズムと日本の伝統


hishikaiさん、コメントとTBありがとうございました。
あなたの2008年11月4日の記事『伝統とグローバリゼーション』を読ませていただきました。しばらく所用で時間がとれず、すぐにご返事できませんでした。あらためて読み返してみて、感じたこと考えたことを書きます。あなたの記事を私が誤解しているとすればご指摘いただきたいと思います。

私の先の小論「ソフトバンク孫正義氏にみるグローバリズム 」に対するあなたの批判の要点は、最後の結論の段落に書かれていると思います。引用します。

>>

「全体の状況に注意を払う必要があるのは、私達の生活とそれに伴う伝統が常にその中にあり生きて変化しているためである。全体の状況と伝統の縮約である諸基準とでは、特に時代の分岐点にあってその選択が迫られた場合には、本来的な拘束力で全体の状況が優ると考えなければ伝統それ自体の存続をも危うくする。

例えば明治の文明開化にあって我国の建築家が和風建築から洋風建築へと様式の変更を迫られたとき、建築家の胸にどのような選択が働いたであろうかということを、後世の私達は現在に残る和洋折衷様式の中に発見することができる。それを残念でありながらも最善の選択であったと許すことは卑怯な考え方だろうか。

あるいは弁護士が自分の客に請求された賠償額が妥当ではないと主張するときに「この賠償額は不正だ」と言うだろうか。そうではなく彼は全体の状況に照らして、請求された賠償額は「現在の一般的な水準からはずれている」と言うべきではないだろうか。さもなければ彼は信用を失い、客は全てを失うのではないだろうか。」

>>引用終わり

ソフトバンク社の孫正義氏が「女優のお二人に、一台一千万円もする携帯電話端末をプレゼントされたこと」(以下、孫正義氏の「販促営業行為」と言います。)に対して、先の小論で私は、「日本の先進的な経営者として倫理的にも正しいのだろうか」という問いを投げかけました。

それに対し、 hishikaiさんは、「倫理的にも正しいのだろう」かという私の「狭量な」問題提起は、「現在の一般的な水準からはずれている」というべきではないか、そうでなければ「全体の状況」を見失って、「伝統の縮約である諸基準」すらも誤解され、その「信用」をも失ってしまうと言われているのだと思います。

つまり、孫正義氏が行った「一千万の携帯電話端末のプレゼント」という時代の「全体の状況」は「伝統の縮約である諸基準」に優先されるべきで、さもなければ、「伝統の縮約である諸基準」そのものも存続を危うくしかねないと述べられているのだろうと思います。

hishikaiさんの見解についての私の以上の理解が間違っていないとしたうえで論を進めます。

先の私の小論での用語については、一般的に常識的な概念理解を前提にして論じたつもりでした。が、たとえ学術論文でないとしても、もう少し用語の意味の輪郭をはっきりさておいた方がよいと思います。

ここでの重要なキィワードは「伝統」と「グローバリズム」(あるいは「グローバリゼーション」)だろうと思います。何をもって「伝統」と言うか、また、「グローバリズム」と言うかという問題です。さらにhishikaiさんのおっしゃる「伝統の縮約である諸基準」についても同じことがいえると思います。

私が「伝統」ということばで考えている中身は、普通に日本人が「武士道」などということばでイメージされている、質実倹素な生き方、暮らし方ぐらいの常識で考えてもらえればいいと思います。

私たちの生きる現代の観点から、継承されるべき伝統と否定されるべき伝統のあることは当然です。「伝統」のすべてが、継承、存続されるべきであるとは誰も考えてはいないでしょう。先の小論ではかならずしも厳格に規定はしていませんが、「江戸時代の身分制度」や「戦前の小作人制度」などを、「伝統」の範疇の中にまったく含めていないこと、また、明治時代の「和洋折衷文化」も必ずしも否定していないことも了解していただける思います。

先の私の小論では誤解を招きかねない点があったとすれば、明確にしておく必要があると思います。言うまでもないことですが、「孫正義氏の「一千万円携帯電話端末プレゼント」自体が、法律的にも道徳的にも「悪」であると断罪しようとするものではないということです。

孫正義氏はソフトバンク社の経営者として、営業、販売促進のキャンペーンの一環として、当然の営業行為としてなされたのであろうと思います。ですから当然に私の先の小論の見解も、孫正義氏の「販促営業行為」は法律的にも道徳的にも違反している、すなわち「悪」であるから中止せよ、といっているのではありません。

売り上げの向上という観点から、企業経営の立場から見れば、私の見解がかならずしも正しいとは言えないかもしれません。それに、私がそのようなことを言ったからといって、孫正義氏がそのような営業上のキャンペーンを中止するはずもないでしょう。

孫正義氏の「販促営業行為」は「悪」ではありませんから、続行しようが、中止しようが、いずれにせよ私にそれを阻止する義務も権利もありません。そうしたことは本質的には私にはどうでも良いことで無頓着です。

しかし、ただ私の価値観からいえば、孫正義氏のような「販促営業行為」は「悪」ではないが、経営的にも倫理的にも「低い」とは思っているということです。その見解を一市民の一つの意見として述べただけであります。それ以上でも以下でもありません。その点で「倫理的にも正しいか」と言う表現は、かならずしも適切ではなかったかも知れません。

ちょうど、聖書の中に次のような話があります。

「永遠の命」を探していた大金持ちの青年とイエスが出会ったとき、イエスはその青年に言ったそうです。「もし完全になりたいのなら持ち物を売り払って貧しい人に施し、そして私に付き従ってきなさい」と。イエスがそう勧めると、青年は「悲しみながら立ち去っていった」そうです。(マタイ書19:20、ルカ書18:22、マルコ書10:21など)

もちろん、その青年がイエスに付いて従わなかったからといって、彼が「悪」を行ったことにはなりません。ただ、イエスの価値観からすれば、青年は倫理的には完全ではなかったというにすぎません。

先の私の小論は、日本の企業文化、経営者の意識についての問題提起にすぎません。「一千万円携帯電話端末のプレゼント」も、ひと昔まえの一般の日本人の価値観では、かならずしも賞賛されるようなものではなかったのではないかと、ただ私が推測するだけです。そうであれば、私の価値観はそれに近いと思うだけです。そして、現代日本においては私のような意見は、多くの人に一笑に付されるだけだと言うこともわかっているつもりです。

グローバリズムもすべて否定されるべきだとも考えている訳ではありません。グローバリズムの本家とされるアメリカでも、先に議会でやり玉に挙げられたリーマンブラザースのような経営者ばかりとは限りません。むしろ、公平に見て、企業倫理は全体として見れば、日本よりは欧米諸国の方が高いのではないかと思っています。日本的経営は、多くの点でいまだ国際水準にさえ達していないのではないかと思います。西尾幹二氏などと異なって、いわゆる「小泉改革」なるものが中途半端の失敗に終わったと考える所以です。

さらに付け加えれば、アメリカやイギリスなどのヨーロッパ諸国のグローバリズム、自由主義、個人主義には、キリスト教という宗教的な「伝統」が存在していますが、それをまねた日本の「戦後民主主義文化」にはキリスト教に相当するものがないこと、などもその背景にあると思います。

ですから、孫正義氏の「販売促進営業活動」に対する、一介の市民にすぎない私の見解は、hishikaiさんの言われるような「伝統の縮約である諸基準」に反するものであるとも思いませんし、したがってまた、そうした見解が「全体の状況」に反するために現代日本人の信用を失って「伝統の縮約である諸基準」そのものも存続できなくなるようなものとも考えません。

最後に、グローバリズムの帰結として生じた、いわゆる「経済格差」について、言い添えますと、
「経済格差」そのものがあってはならない、というものではありません。
努力や能力に応じた「格差」がなければ、「悪平等」になってしまいます。

ただ、それが固定化すると、一つの社会内に階級制度が生まれかねません。
課題は、「格差」自体を無くすことではなく、それを固定化させることなく、階層間や、「階級」間の流動化を十分にはかって、制度としての階級を作らないことです。

「いわゆる格差問題について」

 

 

 

 

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