夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

反日と愛国

2010年03月13日 | 国家論

 

反日と愛国


在日の外国人に参政権を付与することに積極的な民主党が、昨夏以来に国会で多数を占めたところから、「外国人参政権付与問題」がとみに現実性を帯びるようになった。それに応じて、この問題をめぐっても賛成反対の議論がかまびすしくなってきている。

もちろん、言うまでもなく在日の外国人の人権がおろそかにされてよいわけではない。基本的な人権においては日本人と同じよう尊重されるべきであることも言うまでもない。外国人とは友好の関係にあるのが理想で、だから北朝鮮による拉致問題の対応などで朝鮮学校に通う生徒に嫌がらせなどをすることがあってはならないのも今さら言うまでもない。しかし、残念ながら日本人のすべてが聖人君子の紳士というわけにも行かない。そうした醜い行動をする日本人のいるのもたしかだ。これはしかし日本人だけではなく、現在の人類一般のモラル水準の現実がそういうものであるにすぎない。

外国人にも日本人と同じように参政権を与えるのというのが理想的であるのかもしれない。しかし、それは理想であって、人間一般の傾向を見ても、また私自身の心の内面を振り返って見ても、なかなか人間性悪説を捨てきれない立場からすれば、民主党の小沢一郎幹事長や赤松農水相などが最近になって韓国や民団などの会合で「外国人に参政権を付与する」ことを明言していることについて、拙速ではないかという懸念を捨てきれない。外国人に参政権を付与することについてもどうしても慎重な姿勢を崩せないのである。

在日の外国人がすべて善意の人間ばかりであれば、そもそも何の問題もないのである。しかし、現実がなかなかそうではないから問題なのである。外国人の中には敵意と憎悪に満ちた者もいる。それが問題なのである。

外国人のすべての者がもちろんそうであるわけではないが、中国人や在日朝鮮人たち、あるいは帰化日本人たちの中に、日本人や日本に対する憎悪や敵意に満ちた者もいる、それが事実だろう。

とくに中国人や朝鮮人で、何らかの事情で日本に帰化したものの、彼らがすべて日本人や日本国に好意的であるとは限らない。むしろ、彼らの中に反日の敵意と憎悪に満ちた者がいる。彼らは、帰化して国籍を取得することによって、国籍は一応は「日本人」であるのに、日本に対する本当の愛国心を持たない。それどころか、彼らの内心は、日本に対する敵意と憎悪に満ちている。

それでいながら、国籍上はまぎれもなく彼らは「日本人」であるし、また、日本語しか話すことができず、また容貌上も普通の日本人とまったく区別が付かない。だからこそ、まったくの困り者なのである。このような偽日本人が「日本」や「日本人」についての憎悪に満ちた偏見や悪意を、時に触れ折に触れヨーロッパやアメリカなどにまき散らす。彼らの「日本人像」や「日本像」ほど、世界において日本に対する諸外国の誤解や偏見の種になるものはなく、まったくに始末に困るものである。

とくに、もともと本当に日本を愛することもない悪意に満ちたもと在日朝鮮人などの帰化「日本人」が、日本人面したジャーナリストなどになって、従軍慰安婦問題や南京事件などめぐって、諸外国の日本に対する偏見を助長するような記事を書いて、悪魔的な歓びに浸るということもある。

外国人参政権の問題についても、日本在住の外国人がすべて日本に対する善意の保持者であれば問題はない。もちろん、私たちは外国人に対して愛を特別に要求することはできない。普通の常識的な好意を示してくれるだけで感謝し満足すべきであるだろう。しかし、一方で理由もなく日本や日本人に敵意と憎悪を示す外国人や国籍だけが「日本人」という者もいる。これが現実である。だから、日本自身が祖国防衛の観点から、外国人に対する参政権付与の問題について慎重であるのも当然である。外国人の基本的な人権問題との関係においても、あらゆる角度からその利害得失について検討を加え、拙速を招かないようにすべきである。

また、GHQの占領政策が功を奏したのか、敗戦のトラウマか、反日日本人も少なくない。日本人でありながら自国の文化にいちじるしい劣等感と拒絶反応を示し、その一方で盲目的に欧米文化を崇拝して、欧米人たちの傲慢な優越感情に悪のりし、父祖伝来の日本の伝統文化や生活様式を悪し様に罵る。また、自虐的なほどに日本の弱点欠点を外国に向けて吹聴して、欧米人に媚びを売る。

結局は愛の問題だと思う。どれだけ本当に日本を愛しているか、それが判断の基準である。外国人であっても、また帰化日本人であっても、そこら辺の戦後の「植民地日本人」以上に深く偽りなく心の底から日本と日本人を愛している者もいる。彼らはみな日本の友人である。聖書のルツ記にもあるように、たとえ異民族出身の女性であっても義母を愛したルツは、やがてユダ族に嫁いでダビデ王の曾祖母になった。かってみずからが外国の寄留者であったモーゼは、寄留者、外国人を虐げてはならないと命じた。(ルツ記、出エジプト記第23章など)

その言動の根本に日本への誠実な愛を欠くとすれば、それは単にやかましい銅鑼の音や太鼓の音と変わらない。たとい全財産を日本のために施そうと、それは空しい。また、たといわが身を神風特攻隊員のように祖国のために死に渡そうとも、そこに真実の愛がなければ、単なる虚しい物語にすぎない。

 

 

 

 


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