西田幾多郎・昭和19年2月「我国では天皇は過去未来を含んだ絶対現在の中心であるのである。故に単に家長的ではなくして、・・と云はれるのである」 これが亡くなる前年の哲学者・西田の見解。天皇=現神=現人神という構図。大学の哲学科は必要ないと断言できる証拠。学術学部で十分。
— 焼野のきぎす (@kuzukazura) 2016年6月14日 - 09:15
※追記20160615 「焼野のきぎす」氏のツイートにもあるように、戦前の国体主義者に対する批判の核心となるキイワードは、「天皇現人神」と「八紘一宇」である。右翼の国体主義者は、このスローガンで資本主義の対外膨張を裏付けした。それに対して、左翼は、特にマルクス主義者は、その「階級闘争史観」と「労働者国際主義」に従って国民国家を解体しようとした。 左右の全体主義を、国家社会主義と共産主義を克服するためには、我が国においては、「階級闘争史観」と「国体主義」を、とくに「天皇現人神」と「八紘一宇」を思想的に克服してこそ、その思想の誤りを指摘し「思想的に殺し」解体してこそ、はじめて左右の全体主義から解放される。国体主義者や国家社会主義、共産主義者に対して単に罵り騒ぐだけでは、ヒトラーや東條、マルクスたちの亡霊が消え去ることはない。 正しい国家観として、立憲君主国家体制の自然法とその論理を追求することなくしてはそれを実行することはできない。奥平康弘氏や樋口陽一氏らの「立憲主義」では、更に奇怪な西田幾多郎やマルクスたちの亡霊を地上に呼び戻すことになるだけである。
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ちなみに、「焼野のきぎす」氏は、哲学者、西田幾多郎の上記の「見解」を根拠、証拠として「大学の哲学科は必要ないと断言できる」とされていますが、果たして本当に西田の上記の「見解」は、その証拠になりうるものなのでしょうか。そう断言するだけの必要十分にして必然的な論証にはなっていないと思います。「焼野のきぎす」氏の誤りは、西田の「天皇は、・・現神と云はれるのである」という、個別、特殊な見解をもって「哲学」そのものに、哲学の概念に等置していることにあります。個別、特殊な事例をもって普遍化するという、思考の犯しがちな過ちを犯しています。このことからわかるのは、むしろ、日本の大学、および大学院にこそ、その名(概念)に値する「哲学科」を必要としている、ということではないでしょうか。(20180210追記)