上原良司
時間に余裕があれば、上原良司と彼の生きた時代とをできる限り詳しく調べて、彼の生きた時代のその歴史的な社会的背景について考えてみたいと思って います。それで、いつの日か、伝記の形か小説の形にか、とにかく大日本帝国憲法下の日本がどのような必然性をもって大東亜戦争に突入せざるを得なかったの か、その背景を批判的歴史の観点から考えてみたいと思います。
日本が大日本帝国憲法のような自由な憲法をもちながら、どのような必然的な経路を辿って戦争へと突入していったのか、特にその思想的な哲学な批判的 観点から考察できればいいと思います。幸いにもネットが発達してきて、さまざまな情報や知識を手に入れやすくなっているので、そうした仕事は一般的に昔に 較べてはるかに容易になってきていると思います。
ほとんど無名の内にこの世を去り、かろうじて僅かな遺書などによって歴史に名を留めている上原良司の生涯について知られる機会にもなればと思いま す。今のところ彼の故郷に足を踏み入れたことは未だなく、ほとんどがWIKI をはじめとする、インターネット上の知識に拠っています。
上原良司
上原 良司 | |
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佐賀県の目達原基地にて
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生誕 | 1922年9月27日 日本 長野県池田町 |
死没 | 1945年5月11日(満22歳没) 日本 沖縄県嘉手納 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1943年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍大尉 |
上原 良司(うえはら りょうじ、1922年9月27日 - 1945年5月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。
人物・来歴
長野県北安曇郡七貴村(現・池田町)に医師の上原寅太郎の三男として生まれ、旧穂高町(現・安曇野市)有明で育つ。2人の兄、良春と龍男はともに慶應義塾大学医学部を卒業後に軍医となり、龍男は良司が慶大に進学した年に、ニューヘブリデス諸島の沖で潜水艦と共に沈んで戦死している。
旧制松本中学校を卒業後に上京し、慶應義塾大学予科に入学。1942年に慶應義塾大学経済学部に進学するが、経済学部在学中に徴兵猶予停止によって学徒出陣、大学を繰り上げ卒業した。1943年12月1日に陸軍入営[1]。歩兵第50連隊に配属となり、第2期特別操縦見習士官として熊谷陸軍飛行学校入校、館林教育隊にて操縦訓練を開始し、1944年に熊谷陸軍飛行学校を卒業した。
1945年5月11日、陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として愛機の三式戦闘機「飛燕」に搭乗して知覧から出撃、約3時間後に沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入して戦死、享年22。
戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』(岩波文庫)では「所感」という題名の遺書が巻頭に掲載されている。この文章は多くの人々の胸に響き、映画「きけ わだつみのこえ」やドキュメンタリー番組でも特集されるなど戦没学生の手記の代表格とされ度々取り上げられている。なお、特攻出撃前夜に、陸軍報道班員に「所感」を託していた[2]。
2006年10月22日、池田町に上原の記念碑(石碑)が建立された。
遺書
「所感」
栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。 思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、 これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います。 人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、 底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、 かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。
権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。 我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。 ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまたすでに敗れ、 今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。
真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと思われます。 自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。 現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。 既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。
愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。 真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。 世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。 操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。 理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。 精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。 一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を 国民の方々にお願いするのみです。
こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。 ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。 愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。 天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。
明日は出撃です。 過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。 何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。 明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で
遺本
遺本となった羽仁五郎著「クロォチェ」にはところどころに○印が付され、それをたどると愛する女性へ送られた言葉が浮かび上がる。
「きょうこちゃん、さやうなら。僕は きみが すきだつたしかし そのときすでに きみは こんやくの人であつた わたしは くるしんだ。そして きみの こうフクを かんがえたとき あいのことばをささやくことを だンネンしたしかし わたしは いつもきみを あいしている」
上記の遺書「所感」の後半に「天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思う」と記されているが、その彼女こそが、「きょうこちゃん」こと石川子である。石川は上原の日記にもたびたび登場しており、「こんやくの人であつた」と記されているように、1943年に他の男性と婚約している。「天国において会える」と書いているのは、石川が1944年に結核で病死しているためである。上原は過酷な訓練の毎日においても、常に石川に対して淡い恋心を抱いていた。
関連項目
脚注
外部リンク
カテゴリ:
※出典 WIKI 「上原良司」の項より。