不完全な立憲君主制
九月二十九日の「朝まで生テレビ」に出演した池田信夫氏が氏のブログで、原子力発電の再稼働をめぐる議論(「原子力ムラの論理と心理」)の文脈のなかで、丸山眞男の論文を引用しながら、日本社会に特有の「無責任構造」について論じている。
丸山眞男は旧大日本帝国軍の否定的側面にのみ囚われて、軍人にいじめられた体験もあったのか、その「意義」にまで踏み込んで評価しうる主体的な思想的観点はついに持ちえなかった。その点で池田信夫氏と異なって、丸山眞男を高くは評価しないのであるが、それはとにかく、池田氏が、様々な論考で日本がまともな「法治国家」ではないことを指摘して国民にそれを多少なりとも自覚させつつあることは評価したい。
ただ、池田氏が、それらの論考のなかで「日本教」とか「空気」といった言葉で、日本の法治国家としての「欠陥」もしくは「不完全」を指摘しているのは認めるとしても、これらの用語概念の曖昧さのために、国家としてのこの「欠陥」はどうすれば是正できるかという肝心の課題についてはまともな提言をなしえていない。この点については今は亡き丸山眞男氏も池田信夫氏も同じである。
憲法改正論議の前提としては、まず、正しい「憲法の概念」が確立されていなければならない。その一例として「自然憲法(自然法憲法)」と「実定憲法」の違いを知り、戦後のGHQの統治下に制定された日本国憲法が「実定憲法」であることをおさえておくなどの必要がある。
そして、改正憲法の核心としては、「君臨すれども統治せず」という立憲君主制の原則を明確に規定して、あらためて「君主無答責」の立場をはっきりと新憲法上に規定するとともに、国家の最高責任指導者である内閣総理大臣に、国防の最高統帥権をきちんと帰属させなければならない。それとともに内閣総理大臣の国民と国家と元首のそれぞれに対してもつ責任規定を明確にしておく必要がある。
いずれにしても、池田信夫氏がこの論考で「空気の構造」という曖昧な概念で捉えるだけでは国家統治における責任の所在問題の解決の糸口もつかめない。そうではなく、まず「法治国家とは何か」その「法治国家の概念」を明確にするとともに、その概念に照らしても「法治国家」としての現在の日本国の統治の欠陥が、根本的には現行日本国憲法に由来するものであることを理解する必要がある。
さらにいえば歴史上憲法の概念を最も深く掘り下げたヘーゲルの「法の哲学」は、憲法論議に不可欠の前提であるべきだと思う。この前提を欠く憲法論議は論理的不完全性を免れない。
「がんらい国民の自意識の様式であり、国民の教養によって規定されるものであるとともに」(法の哲学§274)「決して「作られる」ものではない、一国民において発展せしめられている限りの理念であり理性的なものについての意識である憲法」(法の哲学§272以下)を、新日本(帝)国憲法としてそれに客観的な形式を与えるまでは、「日本社会の空気の構造」という「無責任統治の構造問題」は解決されないにちがいない。
GHQによって「単に作られた」現行の日本国憲法の欠陥を克服するためには、かって伊藤博文や井上毅らが日本書記や古事記などの神話から、さらに皇室典範などの不文律に至るまであらゆる有識故実の歴史的な研究を通じて、大日本帝国憲法の制定を準備したように、新しい憲法制定作業には、日本国における伝統的「理性」の顕在化と自覚があらためて不可欠な前提になるのはいうまでもない。そうした意識を欠いて制定された現行日本国憲法の致命的な欠陥は放置されたままである。過去の東アジア戦争の敗北などの歴史的な反省と徹底した総括を踏まえて、明治期の大日本帝国憲法の意義と、とくにその「限界」も明らかにして克服してゆく必要もあるだろう。
今にして多くの識者、団体から新憲法草案が提案されているけれども、伝統的にしてかつ近現代にいたって確立した現在の日本国における「理性」と「理念」の発掘という作業と、立憲君主国家としての理念の深化とその定式化という根本的な仕事はまだきわめて不十分であるように思われる。
いずれにしても、困難な挑戦ではあるが、国家の再建のためには不可欠にして緊急を要する全国民的な事業となるべきだろう。