夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

山野辺の宝石

2009年05月10日 | 日記・紀行

                                             




次第に山野辺の面影も夏の彩を帯びてくる。春の花はすでに散り、新芽のすがすがしい新緑も強い日の光を浴びて日々さらに葉の色の濃さを増してゆく。街中の暮らしに、季節の変化をさほど実感することはないけれど、山辺を歩くと自然の循環と回帰を痛感する。秋冬春夏それぞれに山野辺は相貌を変える。

昨年の今頃は夏野菜の種を蒔いていた。 夏の盛りの暑い日ざしの下で、トマトをもいで食べた時に舌と肌に感じた自然は、今も身体の感覚に深くきざまれている。幼い頃に田舎で味わったトマトの香りの記憶を蘇らせたいという長年のささやかな夢はかなった。

夏野菜を植える
http://anowl.exblog.jp/7945077/

昨年と同じように、今年も生命感にもっともあふれる夏を深く味わいたいと思うけれど、この夏は忙しくなりそうで、余裕を見て見送ることにする。

生涯に残された夏もさほど数が多いわけではないが、一回や二回見送ったとしても、後悔することはないと思う。また再び豊かな夏の日々を迎え味わう日の来ることを期待している。楽しみが先に延びただけだ。

この夏はそれなりに手間のかかる夏野菜に代えて、果樹としてビワを新たに植えることにした。もともと野菜よりもむしろ果樹に惹かれて農作業を始めた経緯がある。

できるだけ荒れた山地に近いところを切り開いてそこに植えることにする。もともと昔は農地であったところだけれど、トラクターなどの農機具が入りにくい土地なので、耕作が放棄されて長年の間に荒れ果ててしまったのである。

このあたりは茶畑に利用されていたらしく、すでに野生化した茶の木がところどころに残されている。むかし静岡で新茶摘を経験したのを思い出しながら、
笹や雑木にまぎれている茶の木の新芽を摘んで持ち帰った。家で玉露の茶にして飲む。

山辺の道を辿って入ると、野いちごが至るところに目に付く。ほとんど人が入らないところで、赤い小さな宝石をちりばめたように映る。赤く熟した小さな実は、それなりに甘い。

昼を過ぎたころ、畑の仲間がマムシを見つけたというので見に行く。すでに頭をつぶされ踏みつけられたマムシが尻尾を捩じらせていた。マムシを見るのも久しぶりである。というよりも子供のころはまだ近所に青大将なども見かけたし、郊外に行くとカラスヘビやシマヘビなどのヘビも見かけた。しかし、畑が住宅地になり、都市化も進むとそうした自然の面影もすっかり失われてしまった。

Mさんは、足でマムシの頭を踏みつけながら、誰かに鋏を借りると尻尾の皮を切り、それを切り口にヘビの皮を剥いでいった。するとタイの刺身のような白身が現れ、ヘビの内臓が透けて見える。 そして首を落とすと池のほとりの水流に持って行った。ヘビの白身を裂いて内臓を取り出し、近くの茂みにそれを投げ捨てた。そしてマムシの白身を篩の網に張りつけて、またたくまにマムシを天日干しにする。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする