夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

業平卿紀行録5

2008年04月16日 | 芸術・文化

業平卿紀行録5


朝廷では天皇家や藤原氏を取り巻く皇位をめぐる争いははげしく、天智天皇や天武天皇の御代以前も以後にも絶えなかった。また桓武天皇の即位すらすでに皇位をめぐる権力争いの様相を呈していた。今も昔も政治には権力をめぐる暗闘には事欠かないということである。と言うよりも、権力をめぐる闘争こそが政治に他ならない。それが古今東西にわたる普遍的な人間的な真実なのだろう。

桓武天皇が即位された頃にも、勢力を広げた藤原氏内部の間にも、とくに式家と北家との間には皇位の継承をめぐって争いが絶えなかった。式家の祖は三男の宇合、北家の始祖は次男の房前、いずれも藤原不比等を父とする。そして不比等には天智天皇の落胤という説もあるらしい。

百済王を祖先にもち、身分もかならずしも高くはない高野新笠を母としていた桓武天皇が、それにもかかわらず皇位を継承することができたのも、藤原北家に対して勝利をおさめた藤原式家の後援があったためと考えられる。

桓武天皇が即位してからも天皇家の外戚の地位や皇位をめぐる争いは絶えることはない。桓武天皇の第一皇子である平城天皇は、病弱であった上に、しかもご自分の妃の母である藤原薬子を寵愛したゆえに桓武天皇に疎んじられた。そのためもあったのか桓武天皇は弟の早良親王を太子に立てていた。

しかし、この早良親王は長岡京の造宮使として新京建設の責任者であった藤原種継を暗殺した嫌疑で捕らえられ、淡路島へ配流される途上に無実を訴えながら死んでいったという。平城天皇もこの事件に無関係ではなかったらしい。この早良親王の御霊を鎮めるために造営された神社が上京区にある上御霊神社であるという。

そして暗殺された藤原種継の子供が仲成、薬子の兄妹だった。この兄妹は平城天皇の異母弟である伊予親王とその母吉子を謀反の嫌疑で自害させる。また、平城天皇の寵愛を得て、天皇とともに平城京にふたたび遷都を図ろうとして兵を挙げるが、結局は弟帝の嵯峨天皇に阻まれてその望みを遂げることはできず、平城天皇は出家し、仲成は殺され、薬子は毒を飲んで死んでしまう。これが薬子の変と呼ばれる事件である。

この事件に関与した咎で、平城天皇の第一皇子である阿保親王は、810年(弘仁元年)に大宰権帥に左遷される。また、第三皇子の高岳親王は皇太子を廃され、出家して弘法大師の弟子になる。この親王は仏教の真理を求めて入唐し、さらに天竺にまで赴こうとして消息がわからなくなったという。

この嵯峨天皇との政争に敗れた平城天皇や阿保親王を祖父や父にもって生まれたのが在原業平だった。その血脈から言えば業平は嵯峨天皇の第二皇子であった仁明天皇やその子文徳天皇に劣っていたわけではない。むしろ桓武天皇につながる天皇家の嫡流に属していたといえる。しかし父祖たちの事跡が業平の生涯に深く影を落としていることを思うと、個人が引き継がざるを得ない宿命というものを考えざるを得ない。

嵯峨天皇との政争に敗れた平城天皇や阿保親王を祖父や父にいただいたがゆえにこそ、当時の権勢家藤原一族からは遠く、権力の中枢からは外れざるを得なかった。おそらくそうした鬱屈した思いが、業平の生涯に特別な色相を添えることになったにちがいない。

 


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業平卿紀行録4

2008年04月16日 | 芸術・文化

業平卿紀行録4


その後中臣の鎌足は、娘たちを天皇家の後宮に送り、天皇家の外戚となることによって権力を確立していったのであるが、これは彼らが滅ぼした蘇我氏の一族が勢力を強めたのと同じやり方だった。ここではこの歴史的な事件の背景、その経済的なあるいは政治的な動機などについては、深く論じることはできない。ただこうした政治的な事件をきっかけにして、今日的な用語で言えば、天皇を中心とした天皇全体主義とでもいうべき政治経済体制が確立されてゆくことになったのは事実のようで、それまでにも中国や朝鮮から多くの文物を手に入れてはいたが、遣唐使などの派遣も制度化されて、中国の国家体制に倣って、日本における律令国家体制がさらに整備されてゆく。

桓武天皇のお后であった藤原乙牟漏の曾祖父がこの中臣鎌子、すなわち藤原鎌足である。この若くして亡くなられた美しい后の父は藤原良継、祖父は藤原不比等である。こうして桓武天皇のお后であるこの藤原乙牟漏に生まれた子供が後の平城天皇と嵯峨天皇および高志内親王である。

この平城天皇は幼児期をそこで過ごしたためだったのか、父の桓武天皇が長岡京、平安京と遷都した後も、奈良の都を恋しく思ったのだろうか、平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位した後にも、上皇となって旧都の平城京に戻りそこに住んだ。そして、新しい都平安京に住む弟帝の嵯峨天皇から復権を企て、ふたたび奈良の京、平城京に遷都しようとして平城上皇が弟帝と争った事件が薬子の乱であった。

こうしてみると、ふだん散歩の途中にも、その前をただ何思うこともなく通り過ぎていた后藤原乙牟漏の高畠陵を思い出すとき感慨深いものがある。歴史を知るということはこういうことなのかも知れない。「后姓柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り」と『続日本紀』に記され、わずか三十一歳の若さでなくなったこの后の残した二人の兄弟、安殿親王、神野親王がその後に遷都をめぐって地位を争うようになることなど、このお后のご生前には知るよしもなかっただろう。

 



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