夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ルイス・フロイス

2008年01月30日 | 芸術・文化

 

ルイス・フロイス

昨年の秋頃から関わり始めた畑仕事の仲間から、京都府庁で展示会をやっているという話は耳に挟んでいた。しかし、忙しさにかまけてすっかりそのことを忘れていたところ、昨日、リーダーのHさんより電話があり、行ってみられてはどうかというお誘いを受けた。それで、初めて、その展示会が今月末までであることを思い出した。何とか明日中に行くことにしますと返事はしたが、もともと興味がなかった訳ではなく、行くつもりにはしていたのだが、すっかり忘れてしまっていた。

その展示会は京都府庁の旧庁舎の中で行われていた。人間の原点としての農業とその意義を少しでも伝えようとしたものである。利益と効率を第一におかない農業を目指そうとするものである。それはまた、私たちの生活や人生を本当に豊かにするものとしての農業が目指されている。自然は奥深く苦しいが、美しくまた楽しくもあることが教えられる。

現在の京都府庁の一角に残されたこの旧庁舎本館に一歩足を踏み入れたとき、この洋館造りの建築物の気品に打たれ、その風格に驚いた。重要有形文化財にも指定されているらしい。そこに感じたのは何よりも、「西洋」である。この建築物に足を踏み入れて思ったのは、日本人が初めて出逢って目に映じ感じたヨーロッパの姿である。また江戸期の文化の水準もよくわかる。この府庁旧本館は明治37年(1904年)に竣工されたそうである。だから、すでに百年以上の歳月を閲しているが、このような建築物一つをみても、明治人のヨーロッパ文化、文明に対するその摂取と消化のレベルの高さがよくわかる。昭和や平成の御代の日本人よりもよほど、西洋を奥深く理解していたのではないだろうか。西洋建築といっても、表面的で軽佻浮薄な植民地文化の産物ではない。

以前にも府庁には何度も来たことはあり、確かこの旧本館にも訪れているはずだが、私の方にそうした問題意識もなかったために、文化としての建築について、記憶をとどめることもほとんどなかったのだろう。デジタルカメラに記録しておこうと思ったけれど、あいにく電池切れで動かなかった。

(ネットでその面影は見られます。京都旧庁舎http://www.chigirie.i-ml.com/blog-rutiler/2007/04/post_67.html)

久しぶりに京都の「官庁街」にきて、少し懐かしさが募ったのか時間もあったので、若い日に多くの時間を過ごした「土地」と「街」をふたたび訪れてみようと思った。しかし、わざと烏丸通りを北上することなく、少し裏通りの智恵光院通りを北にあがった。とくに洛北の国際会議場とその前にある宝ヶ池プリンスホテル、今は改名されているらしいが、を目的にしようと思った。

このホテルはかって西武鉄道の総帥として権勢を誇っていた堤義明氏が、国際会議場の受け皿となる宿泊施設として、肝いりで建設したものである。村野藤吾という今はなき建築家が設計したヨーロッパの城館をイメージしたホテルである。確かこれが遺作となったはずだ。もし京都に来られて機会があるならぜひ一度宿泊されるのもよい思い出になるかもしれない。

考えればいったい何年ぶりだろうか。話にもならないほど近くに住んでいながら訪れることもなかったせいか、それにしても、紫明通り、出雲路橋からその経路をすぐに思い出せない。鴨川沿いの立派な桜並木は今はすっかり葉を落としているが、そぎ落とされた殺風景なその枝振りの偉容だけでもさすがだ。

とにかく北へと思って走るが、かすかに記憶にある宝ヶ池に通じる道が見あたらない。それで、二度ほども上賀茂神社の裏手の清流が豊かに流れる閑静な町中を間違って走ることになった。そして道を探している間にも、岩倉あたりに出てしまう。この土地も思えば懐かしいところである。学生時代に友人が三宅八幡の駅近くに下宿していた関係でよく訪れたものだ。それも昔のことである。後年になって知り合った女性も岩倉に住んでいて、その関係でよく来たことがある。だから実相院や病院のある一帯もよくうろついていたのでそれなりに土地勘はあって、迷うという感じではなかったものの、探そうとする道になかなか出くわさない。その街の面影は大きく変貌しているとはいえ、ただ懐かしい。

とうとう、柊の別れあたりにまで出てしまう。さすがに方角を大きく間違えてしまったので引き返す。

深泥が池の畔まで出る。この池の印象に残っているのは夏の姿だったが、今はその周辺はすっかり冬枯れの景色になっていて、池の中央の砂州に枯れた葦が群生しているだけだった。水辺でおしどりがくちばしを水中に入れ餌を漁っている。この池を右手に見下ろしながら北に走ってようやく、プリンスホテルの銅さびた屋根が冬の寂れた木立の上に眺められた。

すっかり北に走り過ぎてしまっていたようである。それでホテルの姿を見失わないように南方に戻り宝ヶ池通りに入ってようやく、左手に国際会議場が、右手にプリンスホテルが見えた。この会議場ではかって環境問題が話し合われ、今ではほとんど有名無実になってしまった京都議定書の議決されたところである。余裕があればホテルのロビーでお茶でも飲んで時間を過ごしてもよかったが、それはまたの機会に譲って、まっすぐ市街地の方へ戻ることにした。

トンネルを抜けて少し走ると昔と同じように狐坂があるはずだったが、峠に出てみると、そこにも高架道路が造られ、その高みから市街地が見下ろせるようになっていた。昔は宝ヶ池に出るには、木々のうっそうと繁った山間の狐坂を抜けるしかなかった。デンマークのキルケゴールという詩人哲学者が『反復』という著書の中で、「人生の反復」を試みようとしたが、彼と同じように、「反復」の不可能を実感するしかないようだ。

北山通りに出る。このあたりも変貌著しいけれど、それでも骨格はそのままで、やはり懐かしい。この通りの植物園の傍らに府立総合資料館がある。この資料館へは昔、結婚してまだ間もない頃、弁当を作ってもらって洛西から通ったことがある。長女の名付けもこの資料館で考えた。北山通りを挟んだ北側の向いに喫茶店があった。明るい陽差しの良く入る瀟洒な店だったが今はない。

資料館の前をいったん通り過ぎたが、時間にまだ余裕のあることに気づいて、懐かしさもあり久しぶりに訪れてみる気になって引き返した。

平日でもあったせいか、持参した弁当でかって昼食をとった休憩室も、今は相席しなくともすむほどには空いていた。そこの自動販売機のコーヒーで一息ついた後、館内に貼られたポスターや並べられてあるパンフレットなどを丹念に読みながら見た。洛西に戻ってきながら、この洛北までほとんど足を運ぶ機会を失っていた間に、コンサートホールなども造られ、三月一日には、バッハの「ヨハネ受難曲」などの演奏会の開かれることも知った。三条の文化博物館では今、「川端康成と東山魁夷」の展覧会も開かれているらしい。それに今年は源氏物語の千年紀だとかで、何かと催し物も予定されているようだ。もう少し文化的な体験を増やして生活に潤いを持たせてもいいと思う。

階段をのぼって閲覧室に入る。以前にはバッグなどの私有物の持ち込み禁止などの注意書きがあったのに、見あたらないので入り口近くに座っていた案内の人に尋ねると、今は持ち込みは許されているそうである。かなり以前からだという。すっかり浦島太郎のような気持ちになる。図書室の利用者が信用されるようになっただけ、進歩であるには違いない。

館内の座席にはまだ十分に余裕があった。その一つの机を確保し、ダウンジャケットをそこに脱いで、書架の間をゆっくり巡って歩いた。本当に久しぶりである。それが何か失われた時間のように感じさせ、永遠に戻ることのない時間と土地の移動を思った。

ついでだから何か摘み読みでもして行こうと思う。何が好いだろうか。こんな時には実用書は十分だが、かといって、たくさんに並んでいるそれぞれの地域の風土史や地域史も手に取る気にならない。

たまたま、定家の『明月記』があった。一冊は漢文の原文で一冊はそれを読み下した本である。また、その近くにルイス・フロイスの『日本史』の翻訳があった。この三冊を抱えて座席に戻る。

九百年ほど前に書かれた『明月記』はあまり見なかった。フロイス『日本史』の翻訳の方は、時間の許す限り読んだ。フロイスは織田信長の時代に日本に来たカトリックの宣教師である。彼の生きた時代からすでに四百年以上の歳月を閲している。彼はインドのカルカッタ、ゴアを経て日本の長崎の横瀬浦から平戸を経て、当時の日本の都であったこの京都にも足を踏み入れている。今でも彼の足跡をたどることができるのだろうか。フロイスは自分の生きた証として当時の日本の世情を克明に記録したが、その量は膨大にのぼるという。彼の書いた原稿自体は教会の焼失とともに失われたらしいが、その写本が残されたということである。それを四百年後の今日、丹念に訳した翻訳者の労役と執念には頭が下がる。

フロイスの生きた時代からほぼ五百年を経て、今私たちがこうして生きている。そして、私たちの死後五百年の世界に生きる人々はどのような人々なのだろうか。そんなことを考えながら、閉館時間にまだ少し時間を残しながら、この懐かしい資料館を後にした。

 

 

 

 
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