明日の葉っぱ(8×8)=69

思いつくまま 気のむくまま書いてます。

恋の歌 ラニアルズ

2022-07-20 05:53:00 | 僕の音楽日記
90年代 中期94〜97年ころ
小室ファミリーが音楽界を席巻
した。

小室哲哉プロデュースのアーティストが大挙デビュー、ヒットチャートをにぎあわせていた時期が
あったことは記憶に新しい。

その20年前に当たる
1972年から75年ころにかけて
やはり
その
〇〇ファミリーの原型ともいう
その時は〇〇ファミリーなんて言葉での表現はなかったけれど
時代の中心者のもとに集まって
売り出されていったアーティストたちがいた。
関係性を強めて悪く言えば
おこぼれちょうだい的な
良く言えば
ウェーブに乗っかる
そんな時代の狭間に
存在したグループ


ラニアルズ


彼らは
拓郎さんの曲をcoverして
デビュー二作目を「恋の歌」とした。


拓郎ファミリーと呼ぶのなら
その頃は
【猫】や【ラニアルズ】
【六文銭】など

吉田拓郎さんを中心に関係しながら
活躍していたように思う
ラニアルズ… 「ザ」をつけて
「ざらにある」
と自虐的なネーミングでもあった。

ラニアルズは
拓郎さんのステージにも飛び入りで
ゲストにでていたりする
ちょうど
金沢事件後の
神田共立講堂のステージにも駆けつけたり…

瀬尾一三さんアレンジの【恋の歌】
このアレンジは
のちに
'75つま恋の最終ステージ人間なんて
を歌う前のラスト前の曲だった。

同アレンジで拓郎さん自らも歌っている


2019年のステージでちゃんと歌って
以来
1975年のつま恋で歌って以来
【恋の歌】は披露していなかった。

とてもシンプルではあるけど
どこか懐かしく
せつない
青春歌謡的な雰囲気の楽曲で
古さは感じるものの
僕ら以前の世代の人たちは
とても馴染みのある
フレーズなのだと思う。

ラニアルズが歌う
【恋の歌】も
拓郎さん本人が歌うよりも
この歌のもつ雰囲気は
多分
ラニアルズが展開した表現の方が
あってたりもすると思う。



モニャモニャ スピッツ

2022-07-17 18:34:00 | 僕の音楽日記
アルバム「醒めない」の
9曲目に
入っているバラード
とても素敵なバラード
子守唄のようなバラード


アルバムのジャケット写真に
写っている
ネバーエンディングストーリーに
出てきてた
聖獣ファルコン
を思わせる風貌
これがモニャモニャだと言われてます
想像の生き物だけど
この歌のもつ雰囲気と詩の内容を理解してみると

モニャモニャ
作詞作曲草野正宗


優しい眼で聞いている 僕には重要な言葉
感情は震えても 余裕なふりして隠し続けてた

モニャモニャが一番の友達
なだらかな草原を走りたい
つまづくまで 燃え尽きるまで

笑うことなど忘れかけてた 僕を弾ませる

モニャモニャは撫でるとあったかい
この部屋ごと 気ままに逃げたい
夢の外へ すぐまた中へ

やがて雨上がり 虹が出るかも 小窓覗こう
笑うことなど忘れかけてた 僕を弾ませる



現実逃避的に心が折れた時
逃げ出す時
癒される存在を見つける
逃げ込む場所を探す

それは自分を再生させるため

そのことがここのフレーズで見てとれる

【モニャモニャを撫でると暖かいこの部屋ごと気ままに逃げたい
夢の外へ すぐまた中へ】


夢は
たぶん
きっと
よりどころ
だけどそれには遠く
また、簡単には辿り着かない
だから逃げ出したくなる


また気持ちが向かうように
しばしの心の休息を
モニャモニャに託して

穏やかな気持ちにさせる
とても素敵なバラード
モニャモニャ

これがあるから
スピッツはいい!

難解なタイトルと詩の持つ雰囲気
そこがスピッツらしさだし
作品を作る草野正宗さんらしさ

作り手と聞き手に多少のギャップはあった方がいい

そのギャップを楽しむのが
曲を聴く時の醍醐味。




君のために 山本コウタロー

2022-07-16 06:26:00 | 僕の音楽日記
山本コウタローさんが
亡くなった
73歳
ソルティーシュガーで1970年在学中にデビューして
から「走れコータロー」で
第12回レコード大賞新人賞を受賞した。

その後武蔵野タンポポ団から
ソロになり
74年に山本コウタローとウィークエンドを結成して
名曲「岬めぐり」の大ヒット
大学の卒論は
「誰も知らなかった吉田拓郎」だった。
70年代前半に
拓郎さんとはよく親交があり
2人とも喋りがうまく
コウタロータクローのコンサートなどジョイントコンサートなど行っていたり
ラジオ番組もよくお互いが出演していた。

事務所も
ユイ音楽工房で同じことから
'75つま恋で
ウィークエンドもステージに立っている
その後'85つま恋にも出演している
吉田拓郎さんのそばで
吉田拓郎というアーティストを
影ながら応援し、支えるように
寄り添うように

付かず離れず
山本コウタローさんは
拓郎さんを間近で見ていた
1人だった
それが証拠に
卒論が
「誰も知らなかった吉田拓郎」という後日
書籍にもなった。


1975年初めには拓郎さんは
山本コウタローさんと吉田真由美さんの結婚式の仲人を引き受けてる
また、山本コウタローさんも
吉田拓郎さんの最初の奥さん
との結婚式のことを歌にしている

【1972年6月26日 晴れ】

というタイトルの歌である

1973年 
ソロで活躍していた時期に
拓郎さんが唯一提供した作品

作詞岡本おさみ
作曲吉田拓郎
編曲瀬尾一三
黄金コンビだ
その頃の強力な布陣で
提供された作品
だったけれど…

ちょっと
うーん
なんだかなぁ
って感じ


♪そうだ 僕にはチカラがあったんだ

のあとのコーラスのアレンジが
面白い

ウー ヤー
ウー ヤー
なんて
曲もあまり力が入ってない感じ
だったし、
もとより
詩の段階で決まることが多いので
詩先の作業が、多い拓郎さんにして
岡本おさみさん、の提供詩には
ムラがあったから
致し方なかったかも

でも、どうせなら、この、布陣で
ヒットさせたかったのも事実。
そう!タイトルこそ
「君のために」といっていたのだから…

ヒットさせたかったよね



埋もれた名曲ならず
迷曲か…


山本コウタローさんの冥福を
お祈りいたします。






旧友再会フォーエバーヤング 山本山田

2022-07-15 20:41:00 | 僕の音楽日記
7月4日に
山本コータローさんが亡くなったと
報道が…
73歳、また、1人
フォーク世代の活躍された
アーティストが逝ってしまった。


1982年に山本コータローさんと
山田パンダさんが組んだユニット
【山本山田】
デビューコンサートは
渋谷エッグマンで
確か5日間にわたって
日替わりゲストを交えて
デビューコンサートを開いた。
その模様の音源もでていた。
当時レコードで発売され
その後CD化はされてない。

よく声が出ていたころのおふたり。
山本コータローさん
の艶っぽい声
山田パンダさんの
優しくも男らしい声
このユニットのもつ
暖かみが伝わる
作品
[旧友再会フォーエバーヤング]
作詞作曲吉田拓郎

彼らのために書き下ろした作品 のちに自らもセルフカバーしているのだが

ちょうど僕ら世代には共感できる内容の歌

もう…
そんな年代になってきてる
もうそんな歳にもきている

若かった頃が一番だなんて
そんなこと
思いたくないと意地っ張りが
素敵なことだってあったりも
する。

食い下がって
しがみついて
まだまだ
って気持ちだけで
前へ前へ

それがこれからの
自分たちの生き方なのかも

歌のように
生きられたら

そんなことも思いつつ
サラリと素敵に歌っていた
山本山田
旧友再会フォーエバーヤング

山本コータローさん
ご冥福をお祈りいたします。


            合掌


放課後 DUO

2022-07-11 14:22:05 | 僕の音楽日記
1979年発売
フォーライフレコードからの
新人デュオ
そのままのネーミングの
【DUO】

77年原田真二さんをデビューさせて男性アイドルをどんどん
推していくそんな
方針だったのか?
アイドル系の歌手に
提供曲をかなり投入していた時期

拓郎さん本人も
社長業とソングライターとしての
二足の草鞋で八面六臂の活躍中
フォーライフレコードの立て直しと合わせて

三足目の草鞋、

いわゆるシンガーとしての
吉田拓郎はこの後くらいから
復活していくことになるのだが…

篠島コンサートへ向けて
気力も充実し始め、
アーティスト吉田拓郎が
目覚め始めた時期。

作詞作曲吉田拓郎さん
編曲は
石川鷹彦さん
モロ拓郎節のど真ん中の楽曲。
一生懸命拓郎節をなぞって
歌唱しているところが
なんともいじらしいというか
新鮮というか……

アレンジも石川鷹彦さん!

結構ポップな感じに仕上げて、
らしくないといったら語弊が
あるけれど、
ニューミュージックというジャンルを充分意識しての
アレンジだと思う。

大サビの
♪授業時間は終わった
授業時間は終わった
飛び出せ 
外へ飛び出せ
wooo〜

で間奏に入る流れは
いかにも拓郎節
Aメロ
Bメロ
Cメロまで
マイナー調展開
Dメロからメジャー調に転調
そして大サビと
結構複雑だけど
よく多投する拓郎節ではある
拓郎さんにしてこの手の作り込みは
ある意味得意とするところ
傾向的は多いほうだと
思う。

ティーンエイジの
放課後に跳ねる気持ちがうまく
表現できたかどうかは別として
男性アイドルデュオ
のデビュー曲として
あててきたのは

ジャケット写真にあるように
テニスボールとエレキギターを
持ったツーショット。
テニスだけに
スマッシュヒットを狙って
願っての意味が込められていたのだろうか?