浦田昌計「コンリングの国状学について」『統計学』(経済統計研究会)第10号, 1962年7月(『初期社会統計思想研究(第1章)』御茶の水書房, 1987年)
ドイツ国状学の創始者のひとり(国状学の講義を最初に行った統計学者)であるJ.コンリング(16061681)の経歴, 業績をまとめた珍しい論文。コンリングの著作はすべてラテン語で書かれている(コンリング自身は国状学についての論文もテキストも書いていないという。学生に筆記させた講義ノートがあるのみである)。そうしたこともあって, 筆者は, R.Zehrfeld(1926)と F.Felsing(1930)の研究成果を活用してこの稿をまとめている。
内容はコンリングが生きた時代背景, 彼自身の経歴と立場, その国状学の内容と体系からなる。
コンリングの生涯の詳細は分からない部分が多いようだ。筆者の紹介にそって, 以下にそれを示す。1606年にドイツ北西のNordenで牧師の子として生まれた。若いころから哲学, ギリシャ語, 歴史を学び, 1625年Helmstadt大学に進み, 神学, 医学, 哲学を学んだ。その後, この母校に自然哲学教授として招かれ, しばらくして医学教授の地位についた。特筆すべきは, 血液の循環で有名なHarveyの学説の普及につとめたことである。彼はさらに, 国家学, 政治学に関心をもつようになり, それらの分野で旺盛な執筆活動を行った。また, 王侯の宮廷に出入りするようになり, スウェーデンで女王の侍医, 枢密顧問官となったりした。帰郷し再び, しかし今度は政治学の教授も兼ねた。これらの経験が彼の政治学的研究への関心の下地になった。
こうした経歴をもつコンリングの思想的立場は絶対主義国家理念の支持者で, 領邦君主に無制限の権力を保証するイデオロギーの代弁者であった。国家の利益がすべてであるコンリングにとって, 重要なのは国家の法律と行政であり, 国状学こそは君主, 官僚に必要とされる賢明さを提供するものであった。時代は宗教戦争がひとまず終結し(1848年), 領邦国家がその再建に着手し, それにふさわしい官僚制度を形成しようとしていた。為政者にとって必要なのは政治的知識と正確な現実認識である。この要請にこたえるものこそ国状学(官房学とともに)に他ならなかった。
コンリングの国状学は, アリストテレスの思想を強く受けた次のようなものであった(国家の四要因)。(1)目的因―国家の目的, (2)質料因―人口およびその資産, (3)形相因―国家形態, 政治行政制度, (4)作用因―君主, 官僚および軍隊。
これらの国家の四要因は, 目的因が中心となって相互に内的関係をもつ。目的因は他の3要因を規制し, 目的因以外の3要因は目的因の手段として位置づけられる。この体系にあっては, 国家目的をのぞけば, 国家の質料である人間とその性質が第一に考察されるべき対象である。国家のなかに住む人間の数, およびその性質(国富としての財産など)がそれであり, いまだ充実というものにはほど遠かったが, 今日でいう社会経済統計の中身がそこに盛り込まれた。しかし, この体系では, 質料因としての人間は国家の素材にすぎない。ここから国家の形成因としての国家形態, 統治形態, 実際にこれらを動かす作用因としての君主, 官僚の性質と役割, そしてそれらの物的基礎となるはずの知識が必要となる。
コンリングは国家の取り仕切り方の内容を立法的行政と執行的行政とにもとめ, 前者の立法的行政に必要なのが国家の「全般的知識」とした(執行的行政には国家の部分的知識で足りるとした)。この種の知識に関して, コンリングはやはりアリストテレスを引いて, 「事実の知識」と「原因の知識」とを区別し, 立法的行政には「原因の知識」が無条件に必要と考えた(執行的行政には「事実の知識」で足りるとした)。その内容が上記の国状学の体系であった。
要するにコンリングの国状学は, 30年戦争直後のドイツ領邦国家が国是とする絶対主義的な国家観念にもとづく全般的な知識の体系である。筆者はコンリングの国状学をこのようにまとめたうえで, 次のように述べている, 「Conrlingの国状学は, この様に, 何よりもまず現実的国家生活を全面に押し出すことによって, 神秘的, 宗教的観念から現実的世俗的観念への転換に一定の役割を果たし, また, 国状学の体系の一部としてハリー, 国家の実質的基礎である人口およびその富の具体的実証的な研究に対する関心を呼び起こさせる役割をはたした。/もちろん, Conrlingの国状学は, まずそれがあまりにも領邦国家の行政的観念に密着していたことによって, そしてまた, 彼が近代国家の真の原動力を国家の経済生活そのものの中に認めることができなかったことによって, 真に国家の批判的分析を可能にするような体系をもちえなかった」と(p.24)。
ドイツ国状学の創始者のひとり(国状学の講義を最初に行った統計学者)であるJ.コンリング(16061681)の経歴, 業績をまとめた珍しい論文。コンリングの著作はすべてラテン語で書かれている(コンリング自身は国状学についての論文もテキストも書いていないという。学生に筆記させた講義ノートがあるのみである)。そうしたこともあって, 筆者は, R.Zehrfeld(1926)と F.Felsing(1930)の研究成果を活用してこの稿をまとめている。
内容はコンリングが生きた時代背景, 彼自身の経歴と立場, その国状学の内容と体系からなる。
コンリングの生涯の詳細は分からない部分が多いようだ。筆者の紹介にそって, 以下にそれを示す。1606年にドイツ北西のNordenで牧師の子として生まれた。若いころから哲学, ギリシャ語, 歴史を学び, 1625年Helmstadt大学に進み, 神学, 医学, 哲学を学んだ。その後, この母校に自然哲学教授として招かれ, しばらくして医学教授の地位についた。特筆すべきは, 血液の循環で有名なHarveyの学説の普及につとめたことである。彼はさらに, 国家学, 政治学に関心をもつようになり, それらの分野で旺盛な執筆活動を行った。また, 王侯の宮廷に出入りするようになり, スウェーデンで女王の侍医, 枢密顧問官となったりした。帰郷し再び, しかし今度は政治学の教授も兼ねた。これらの経験が彼の政治学的研究への関心の下地になった。
こうした経歴をもつコンリングの思想的立場は絶対主義国家理念の支持者で, 領邦君主に無制限の権力を保証するイデオロギーの代弁者であった。国家の利益がすべてであるコンリングにとって, 重要なのは国家の法律と行政であり, 国状学こそは君主, 官僚に必要とされる賢明さを提供するものであった。時代は宗教戦争がひとまず終結し(1848年), 領邦国家がその再建に着手し, それにふさわしい官僚制度を形成しようとしていた。為政者にとって必要なのは政治的知識と正確な現実認識である。この要請にこたえるものこそ国状学(官房学とともに)に他ならなかった。
コンリングの国状学は, アリストテレスの思想を強く受けた次のようなものであった(国家の四要因)。(1)目的因―国家の目的, (2)質料因―人口およびその資産, (3)形相因―国家形態, 政治行政制度, (4)作用因―君主, 官僚および軍隊。
これらの国家の四要因は, 目的因が中心となって相互に内的関係をもつ。目的因は他の3要因を規制し, 目的因以外の3要因は目的因の手段として位置づけられる。この体系にあっては, 国家目的をのぞけば, 国家の質料である人間とその性質が第一に考察されるべき対象である。国家のなかに住む人間の数, およびその性質(国富としての財産など)がそれであり, いまだ充実というものにはほど遠かったが, 今日でいう社会経済統計の中身がそこに盛り込まれた。しかし, この体系では, 質料因としての人間は国家の素材にすぎない。ここから国家の形成因としての国家形態, 統治形態, 実際にこれらを動かす作用因としての君主, 官僚の性質と役割, そしてそれらの物的基礎となるはずの知識が必要となる。
コンリングは国家の取り仕切り方の内容を立法的行政と執行的行政とにもとめ, 前者の立法的行政に必要なのが国家の「全般的知識」とした(執行的行政には国家の部分的知識で足りるとした)。この種の知識に関して, コンリングはやはりアリストテレスを引いて, 「事実の知識」と「原因の知識」とを区別し, 立法的行政には「原因の知識」が無条件に必要と考えた(執行的行政には「事実の知識」で足りるとした)。その内容が上記の国状学の体系であった。
要するにコンリングの国状学は, 30年戦争直後のドイツ領邦国家が国是とする絶対主義的な国家観念にもとづく全般的な知識の体系である。筆者はコンリングの国状学をこのようにまとめたうえで, 次のように述べている, 「Conrlingの国状学は, この様に, 何よりもまず現実的国家生活を全面に押し出すことによって, 神秘的, 宗教的観念から現実的世俗的観念への転換に一定の役割を果たし, また, 国状学の体系の一部としてハリー, 国家の実質的基礎である人口およびその富の具体的実証的な研究に対する関心を呼び起こさせる役割をはたした。/もちろん, Conrlingの国状学は, まずそれがあまりにも領邦国家の行政的観念に密着していたことによって, そしてまた, 彼が近代国家の真の原動力を国家の経済生活そのものの中に認めることができなかったことによって, 真に国家の批判的分析を可能にするような体系をもちえなかった」と(p.24)。
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