社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

大橋隆憲「近代統計学の社会的性格-その歴史的地位とイデオロギーの系譜-」『8000万人』第3巻第1号,1949年2月

2016-10-04 11:05:52 | 2.統計学の対象・方法・課題
大橋隆憲「近代統計学の社会的性格-その歴史的地位とイデオロギーの系譜-」『8000万人』第3巻第1号,1949年2月

戦後,推測統計学が鳴り物入りで日本の統計学界に流入した。推測統計学の無批判的導入に警鐘を鳴らしたのが本稿である。ここでは,川田龍夫,増山元三郎,北川敏男などの著作,論文をとおして,推測統計学の学問的性格,その理論的・技術的構造,方法論的難点が体系的に論じられている。本稿は推測統計学批判の嚆矢であるとともに,その後のこの理論の批判的研究の礎石となった。構成は次の通りである。

 1.推測統計学の位置ずけ(①問題をみる視角,②統計の語る事実,③集団の種類,④存在たる集団,⑤解析的集団)/2. 推測統計学の理論構造(①推測統計学の主張,前提的な問題若干,③母数団と試料,④統計の本家争い)/3. 推測統計学の技術構造(①基本機械および付属品一式,②母集団の知り方に出てくる技術的な基本概念,③逐次近似装置の危険性)/4.実験の論理・推測と計画の科学/5. 推測統計学の基盤(①科学的管理法,②品質管理と仮説検定,③大量生産過程と推測統計学の構造)/6. 推測統計学の学問的性格(①北川氏の弁証法,②増山氏のイデオロギー論,③社会統計学における対立,④有産者思惟の世界制覇の形態)
筆者の立場は,蜷川統計学のそれである。したがって,本稿は社会統計学を擁護する視点から書かれ,その視点からの推測統計学批判の展開である。論点はいくつかある。まず社会統計の対象は「存在たる集団」である(純解析的集団ではない)。次に科学の方法は対象に規定され,対象的内容の契機を重んじなければならない(方法が主体の観念物として客体に先立ってあるのではない)。さらに統計的方法は,社会集団の合法則性を捉える社会科学の方法・理論を前提とし,この集団を数量的に研究する研究手段である。

本稿の意義をここでは5点,要約したい。第一の意義は,推測統計学がどのような性格の科学であるかを論じるにあたって,この科学の対象が何かを,原理的に考察していることである。この議論を行うのは,統計に関する知識の総体である統計学が対象としている数字的「事実」とは何かを考えることが大事であるからである。いくつかの所説を整理すると,3つの分岐点がある。その一つは,集団についての事実を語る数字を「統計値」,個体についての事実を語るのが「測定値」であること。二つ目は,集団には対象的な集団(存在たる集団とも呼ぶ)と方法的な構成物としての集団があること。前者は集団の大きさが不明で,集団性の方向が多岐である。後者は集団性の方向が一つで,その安定的な強度を求めることが目的として定立される。三つ目は前者の集団には「自然集団」と「社会集団」があること。ドイツ社会統計学は「社会集団」を問題とし,「方法的な集団」への道を歩む英米数理派は個々の事実を支配する法則をとらえることが問題なので,対象的な事実が個体(測定値)でも集団(統計値)でも,またそれらが自然に関するか社会に関するかを問わない。そこで問題になるのは「解析的集団」であり,さらにはそれがもつ経験的性質を除去した「純解析的集団」である。数理統計学あるいは推測統計学は,「純解析的集団」をその対象とするのである。

 第二の意義は,推測統計学の理論構造を,その科学の視点にたちかえって捉えたことである。推測統計学は「蓋然性の哲学」(=確率論的法則の世界に関する思惟)に依拠する。この科学は客観的存在を単純な直接的方法ではとらえられない,客観的存在として追及するのは本質的存在であり,それと関わる「法則」であると主張する。この客観的存在は,推測統計学にとっては,ありとあらゆる偶然さを考慮した純粋に客観的な法則である。このような対象を把握するには,変化を含み混沌としたカオスである対象を整序する独自の方法が必要である。方法の基礎は主観の側の対象構成作用にもとめられ,主観と客観の乖離を縮めるために方法をもって現実に逐次近似しなければならず,理論模型はそのために必要とされる。模型概念の適用は説明を可能な限り直感的に知るための努力の結果である。数理統計学の理論構造で基本になるのは,母集団と試料である。経験的所与として与えられた資料は仮の現実,仮象の記述である。これに対し,母集団は数学的なケースにストックされている純解析的構成物(その限りで観念的母集団)であり,試料は母集団の一つの現実化に他ならない。しかも,この母集団はそれを構成する単位体の個物を無限個と想定する無限母集団である。社会現象にこれを適用するとなると,例えばある年の日本の人口は,日本と同じ型の国が無限個あり,無数にあるそれらのうちの一つにすぎないことになる。母集団も試料もこの方法全体の機構のなかで解釈されるわけである。(本稿以降の研究では,推測統計学派の行っていることは法則の解明ではなく,パラメータの推計であるとされた)。

 第三の意義は,上記の推測統計学の理論構造を受けて,その技術構造を解明したことである。試料からの母集団の認識,この点がここでの問題である。具体的には確率原理,母集団仮説,仮説検定,任意抽出について,試料からの母集団推定の技法が解説されている。もちろん,その技法はすでに対象の内容と決別し,純形式的確率論的操作によって演繹されるもので,抽象的な数学的構成物にもとづく。当面の試料がある母集団と結びついているという想定から出発し(仮説母集団),この仮説の設定をふまえて仮説検定にかけるという一連の循環的操作が推測統計学の中身であるが,その試料のとりかたは任意抽出という手だてによる。任意抽出は,仮説をたて,その仮説を検定する逐次近似の循環のなかで意味をもつ。(本稿以降の研究では,推計学が必ずしも仮説検定論の構成要素とみなされないことが明らかにされた)。

 第四の意義は,推測統計学が成立した背景を列挙していることである。1930年代以降のアメリカにおけるテーラー・システム,フォード・システムにおける科学的管理法,そこにおける品質管理と抜き取り検査の利用,生産資本と流通資本の関係における「生産者危険」と「消費者危険」の回避がこれである。筆者は,これらの応用の基本にある規格⇒生産⇒検査のプロセスは,仮説の設定⇒実験の遂行⇒仮説の検定のそれに符合すると指摘している。

 第五の意義は,推測統計学のイデオロギー的危うさを指摘していることである。この論文が書かれた戦後の科学界では弁証法に脚光があたっていたので,推測統計学論者もそれを援用した。しかし,多くは弁証法の勝手な解釈であった。推測統計学が唯物弁証法の利用と考えられたり,「帰無仮説」が弁証法の「否定の否定」の法則と結び付けられたりした(増山元三郎)。また,統計学の発展が歴史的社会に割り当てられ,ドイツ統計学は封建主義時代,イギリス統計学が資本主義時代,推測統計学が社会主義時代に対応させられたのである。笑い話のようではあるが,ある意味,まじめに語られていたのである。(その後の研究では,推測統計学派の哲学的基礎は,プラグマティズムないし論理実証主義であることが明らかにされた)

 筆者は最後に次のような結語を与えている,「要するに推測統計学は『科学的』プラス『安上がり的』で有効な『自然科学的』方法であり抽象へ逆行することによって体系化しつつある数理統計学と考えられましょう。ただ他の領域へ使ってゆく場合にその形式的方法たる形式性が当面の科学の内容といかに関連するかはコールマンの要求するようにはっきりさせなければならない。形式の純粋性を期せんがために他の科学の領域を侵犯し,無内容化をひきおこすようなことがあっては『浴槽から水と一緒に赤ん坊をも流しだす』ことになりましょう。まして,その抽象的な『形式性』を『純粋』とか,『本質』とか,『普遍』とかに置きかえて,他のものをことごとく特殊扱いにして,何もかも自分のなかに取り込んでしまうといった世界制覇まで行くようなことになっては,それこそ『浴槽も一緒に流し出してしまう』とでもいうほかはないでしょう」(p.64)。(論文全体は,「です」「ます」調で書かれている。)

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