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雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(144」

2021-01-27 19:58:12 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(144」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/241(2021/1/27/水】詐欺師は商売柄「真面目で誠実な人」を装う。小生のような「自分でも自分を信用できない」怪しい人は詐欺師にはなれない。


詐欺には2回遭った。顔馴染みの東京商工リサーチの調査部長の紹介で訪ねてきたHは「真面目で誠実な人」に見えたし、大手経済情報誌との連携プロジェクトとの触れ込みだという初期のPC(FM7)を130万円で買った。後で調査部長が慌てふためいた感じで「Hは詐欺師だ、新型PCが出る前の不良在庫を売りつけている!」と電話してきた。


今さら返品もできないし、H自身もガラクタとは知らずに売っていたのかも知れない、と気にしないでいたが、それから2、3年後、Hが訪ねてきて「経営コンサルタント会社を始めました、ついてはPR誌に“当世往来”のような記事を書いてくれませんか」と言う。何となくしおらしいし、今さら昔のことを持ち出すのも嫌だから二つ返事で了承した。


ところが4号ぐらいまでは稿料は振り込まれたが、それ以降は連絡しても音沙汰がなく、未払い額が40万円ほどになった時に弁護士名で催促すると「やれるものならやってみろ!」、まるで居直り、ゴロツキ。時々我が社に来ていた女子社員に町で会ったので「Hさん、どうしてる?」と声をかけたら「その名前、二度と言わないでください!」とパニックになったように駆け出して行った。ひどい目に遭ったのだろう。


その後のHの消息は分からないが、日本では詐欺事件があると「騙した奴が悪いが、騙された方も甘い、欲に目がくらんだのだろう、気の毒だけれど警戒心がなさ過ぎ」という“裁定”が多数派ではないか。


日本人は子供の頃から「嘘ついたら針千本飲ーます」「嘘つきは泥棒の始まり」と教えられ、長じてからは稀に「ま、ここは嘘も方便、事を荒立てることもないか」となるが、堅気の人を騙して私腹を肥やすといった悪事はまずしない。


治安ランキング2020年(Watashi Tabi)によると1位:スイス、10位:日本は先進国で唯一トップ10入り。独16位、英29位、仏32位、米44位、中国80位、ロシア86位。ただ、「日本は安全で良かったね」と喜んでいる場合ではないだろう、そういう時代はもう終わったと肝に銘じた方がいい。


米中ロは軍事大国で、いずれも「力治国家」、法や道義よりも力を優先させる国という意味だ。勝者=正義、敗者=悪者、となり、嘘、捏造、ルール違反もOKである。汚い手を使っても勝てばいいという世界に暮らしている人々である。


トップがそうなら国民もそうだろう。たとえ選挙戦があっても負け組は「騙した、汚い手を使った、許せない」と怒るが、勝ち組は「負け犬の遠吠えだ、尻尾巻いてとっとと失せろ」。試合は終わった、ノーサイド、とはならず、憎しみだけが積み重なっていく。


選挙があるだけマシだが、世界200か国あるうち、不正のない、血も流れない民主主義的選挙でリーダーを選ぶという国はせいぜい2割、40か国ほどだろう。大体、中ロにはまともな選挙がない。かつてのソ連は異見を許さず、党中央に逆らう者は反革命、裏切者としてすべて一掃し、自浄作用が効かずに最後は自壊した。


ロシア・ビヨンド「日本のソルジェニーツィン:ソ連の強制収容所で生き延び告発した日本人」から。


<作家・思想家の勝野金政(かつの・きんまさ、1901~1984)は、社会主義的ユートピアを信じ、最初はパリ、それからモスクワ、そして・・・あらゆる権利を剥奪されてシベリアの強制収容所に送られた。何万、何十万人もの囚人が斃れるなか、勝野は生き残り、スターリンの粛清システムの恐ろしさについて告発した世界最初の一人となった。


1930年代から1950年代にかけて、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンの下で行われた、国家による粛清は、ソビエト社会を震撼させた。最も控えめな推算でも、78万6千人以上が粛清の犠牲になり、約380万人が刑務所や強制収容所で服役した。


悪名高き「グラーグ」。これは、ソ連の強制収容所で、正式名称は「強制労働収容所・矯正収容所」だ。その実態を自ら体験し、それを文章に表し、本にした最初の人間の一人は、驚くべきことに日本人の勝野金政だった。


勝野の著作『凍土地帯――スターリン粛清下での強制収用所体験記』と『赤露脱出記』は、早くも1930年代に日本で出版されている。勝野は、多年にわたる非人道的な奴隷労働を生き延び、祖国に帰ることができた。しかし、そもそも彼はなぜソ連にやって来たのか?


◆地元紙で狂人呼ばわり: 勝野金政は1901年に長野県で生まれ、ごく若い頃から一般の人々の利益を守ろうとしてきた。 早くも15歳のときに、彼は村のクラブで、政府の不正について講演した。


「その2日後、私は警察に逮捕され、2日間拘留された。この話は我々の村で知れわたり、地元の新聞には、私を狂人呼ばわりした記事が出た」。彼は、1934年にソ連の強制収容所で書いた自伝で、当時を振り返っている。


もちろん、この若者は狂人などではなく、正義感の強い情熱家で、マルクス主義思想に魅了されていた。勝野は何によらず妥協を拒んだから、常に様々な問題にぶつかった。たとえば、1918年に教育の民主化を求める記事を書いた後、日本大学から放校処分になった。


この粘り強く才能ある学生は、別の大学、早稲田に入学した。そこで彼は、志を同じくする人々を見出し、彼らとともに左翼的な雑誌を出版し、抗議行動に参加して、二度逮捕された。


日本に社会主義思想が広がるにつれて、当局は、左翼への取り締まりをますます強化していった。1924年、勝野は日本を離れ、フランスに向かった。


◆海外の同志のもとへ: パリでは、この日本の活動家は、すべて一からやり直しだった。食うや食わずの生活、勉強(今度はソルボンヌ大学で)、地元の共産主義者との出会い、抗議活動。


「パリでは頻繁にデモが行われていた。ある日、共産主義者の女の子が、「あ、日本人だ。あなたも来て!」と言って、私の手を握った。その時の嬉しさを今でも覚えている。フランス共産党に入党すると私は、労働者のストライキの組織化に参加した。間もなく世界革命が起きるような感じがしていた」。勝野は後に回想している。


日本におけると同様に、仏当局も勝野の活動に不満で、1928年に国外追放処分とした。


「革命は、他の国では起こせるかもしれないが、フランスでは駄目だ」。勝野は地元警官の言葉を書き留めている。ソ連が指導していた「コミンテルン」(国際共産主義運動の指導組織)の助けを借りて、彼はドイツ経由でソ連に行った。ソ連では、左翼活動家には何の問題もないように思われたのだが・・・


◆モスクワで罠にはまる: 初めのうちはすべて順調だった。モスクワで勝野は、片山潜に庇護された。片山は、日本の労働運動の草分けの一人であり、コミンテルンの幹部でもあった。勝野は、片山の秘書を務め、モスクワ東洋学院で日本語を教え、ソ連の新聞と日本の地下出版物のために、盛んに執筆した。後者の出版は、コミンテルンが援助した。


勝野は「労働者と農民の国家」にとどまろうと真剣に思ったこともあったようだ。彼はロシア語を習得し、ソビエト国籍を取り、ロシア名「アレクサンドル・イワノヴィチ」さえもらった。だが、その後まもなく逮捕されて、この名前で、尋問調書に署名する羽目に陥るのだった。


モスクワ・グラーグ歴史博物館の職員の説明によれば、勝野は、コミンテルンの日本部門の内部闘争の側杖を食ったようだ。彼の「師」片山の政敵は、片山派を「裏切り」で告発。勝野を含む多くの日本人共産主義者が投獄された。


「1930年10月末、私は路面電車の停留所に立っていた。雪が舞い、私の顔を冷たく撫でていた。そのとき、何者かが私の腕を強く掴んだ。私は、鳥打帽をかぶった二人のがっしりした男に挟まれていた。そして、ルビャンカにある「OGPU」(ソ連の秘密警察で、正式名称は「合同国家政治保安部」)の本部に連行された」。勝野は逮捕された日をこう描いている。彼は外国を利するスパイ行為で起訴された。


◆囚人による大土木工事で: しかし、OGPUには、勝野が有罪だという証拠はなかった。尋問調書によれば、彼はなぜ学者や軍人と連絡を取り合ったのかと尋ねられ、日本に情報提供したという事実無根の非難を受けた。  


「私は、スパイ行為の告発が荒唐無稽であることを断固主張する」と勝野は言った。刑務所で過ごした18か月の間に、彼は2回ハンガーストライキを行い、自分を処刑するか釈放するかどちらかにしてくれと要求した。


代わりに彼は、強制収容所5年の刑を宣告され、最初にケメロヴォ州のマリインスク市近郊のシベリア収容所(モスクワ東方3645キロ)へ、さらにその後は、白海・バルト海運河(モスクワ北方1100キロ)の建設現場に送られた。


白海・バルト海運河は、スターリン時代の非人道的な巨大プロジェクトだ。10万人以上の囚人が、20か月で白海とオネガ湖の間に227キロの運河を掘らなければならなかった。それも機械を使わずに、シャベルと手押し車だけでだ。


「原始の山の中だ。恐ろしい程静かである。白夜の地平線の彼方、雲の中に光のない日が浮び、鳥の群が飛んでいる。人間の姿の見えない自然の中、そこには文化の影もない。そこへ今、大勢の人間が送りこまれてきたのだ。だが、それは自由のない人間ばかりなのだ。自由のない人間に文化はない。文化とは人間の精神生活の造形である」。勝野は収容所を思い出す。


毎日、午前5時から深夜0時まで、石を砕き、土砂を引きずる。休日も休憩もない。1日のノルマをこなせなかった者は、食事の配給量を減らされた。


だが、勝野は奇跡的に生き延びた。仕事で重傷を負い、病院に移されて、刑期の終わりまで医者の助手としてそこに残ったからだ。白海・バルト海運河の囚人にとっては稀な幸運だった。さまざまな資料によると、運河の建設中に1万2千人~5万人が死亡している。


◆さらばソ連: 1934年6月、勝野は刑期前に釈放された。収容所の実態を目の当たりにし、自ら体験した後、この元活動家は明らかに共産主義に幻滅した。モスクワに帰ると彼は、また逮捕されるのを待たずに、日本大使館に赴き、祖国に送られた。


早くも1934年夏には、日本の新聞に、ソ連の強制収容所での勝野の体験談とともに、「赤いロシア」の「払拭された幻想」についての記事が出た。日本政府は彼を反共宣伝に利用した。勝野は後に、やはりグラーグについて語ったロシア作家への連想から、「日本のソルジェニーツィン」と呼ばれるにいたる。しかし勝野は、政治から距離を置いた。


勝野は回想録を出版し、家業(製材業)と慈善事業に携わり、長寿を全うし、1983年に亡くなった。ロシア政府が、かつてソ連に生きた日本人「アレクサンドル・イワノヴィチ」を完全に名誉回復する13年前のことだ>


悪逆非道の共産主義に騙されるな、ということ。ソ連の後継であるプーチン・ロシアの工作に加え、世界制覇を狙う習近平・中共の篭絡・洗脳にすっかり汚染されたような米国民主党は、ひたすら共産主義国を目指しているように見える。FDRルーズベルトは謀略を駆使してWW2を征し、事実上唯一の戦勝国になり、世界に君臨した。FDR信仰は今でも根強い。


一方、バイデンは本丸で天敵・共和党を一掃する米国版文化大革命を進めるだろうから、インド太平洋の守りは二の次、手薄にならざるを得まい。大体、民主党にとって中共は最大のタニマチ、ウィンウィンのお友達、日本は油断ならない潜在的敵性国家なのだから、中共とガチンコしてまでインド太平洋に関与するとは思えないが・・・


ヒトラーのドイツ軍将校昇進予定者を前にした演説(1942年)から。


<ギリシャの軍事哲学者ヘラクレイトス曰く「闘争、戦争は万物の父である」。自然界を眺めると、この命題が真実であることがよく分かる。永遠に選択が行われ、強者が常に生命、生きる権利を保持し、弱者は滅んでいく。これは自然界の鉄則である。


地球上に人間の住んでいない地域などどこにもない。ある民族が弱くなれば、他の民族が必ずとって代わる。生存競争は、弱者を除去しつつ、強者をますます強くすることによって、生物を進歩発展させている。弱者のための世界秩序などというものはあり得ない。弱者には、ただ服従の運命があるのみである。


もしもわが民族が内部闘争を通じて民族を結集していなかったら、外部からの侵略に対する抵抗能力など全くなかったであろう。歴史家が民族内部の内輪争いと考えてきたものが、実はドイツ民族の諸種族や諸領邦、諸王朝の間に秩序を確立するための闘争だったのだ。


もしもわが民族とヨーロッパが消えうせることを望まないのなら、ドイツは一定の生存圏を基礎として、指導的な大国へと成長しなければならない>(村瀬興雄「ナチズム ドイツ保守主義の一系譜」)


正論である。自国の安全を80年も旧敵に依存するという国はどう見ても弱国だろう。危機が迫っているのに「見捨てないでね、絶対守ってね、指切りして」とすがり続ける・・・初心とか女々しいを通り越して醜悪である。「恥」という字をご存じか? ご先祖様は泣いているぞ。
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp