雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(133」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/231(2021/1/9/土】正月に帰省した長男坊は「俺、タバコやめた、全然苦痛じゃなかった」と言う。1日に5本ほどだから楽に禁煙できたのだろう。小生は母の介護もあって58歳でリタイアして以来、自室でのんびりパイプタバコを楽しんでいるが、窓の外に顔を出しているのでチト寒い。室内で吸うと大事になるから・・・ま、妥協というか、仕方がない。
贔屓にしているタバコ屋のご主人によるとタバコ売上は激減、「量販店に設置した自販機1台だけで月に200万円もあったのに、今はお話になりません」という。日本たばこ協会によると販売額は1999年(以下年度)の4兆2600億円からジリ貧になり2019年は2兆8063億円に。タバコは税金の塊(62%)だが、税収もついに2兆円を切った。
<2018年度では、総額で1兆9752億円(国たばこ税8613億円、地方たばこ税9891億円、たばこ特別税1248億円)が税金として納められています>
為政者にとってはタバコは「打ち出の小槌」、プカプカやってもらえべ2兆円、国民1人当たり2万円のカネが入ってくる・・・美味しいなあ、手放せない財源だ。
しかし前途は容易ではない。喫煙者の減少を値上げでカバーして2兆円の税収を確保してきたが、これからは1兆円台が当たり前になりそうだ。今はコロナ禍と人口減もあって消費が冷え切っているから消費税も当てにはできない。
かくして国の借金(国債)は増えるばかりだが、「親からカネを借りているようなものだからどうってことない、そのカネで消費を拡大して景気をつけ、インフレにすれば借金は目減りするし税収も増える。財政健全化をごり押しすると角を矯めて牛を殺すことになるぞ」という説もあるから、門外漢の小生も楽観視しておこう。ギリシャやイタリアも生きているし、イザとなれば「預金封鎖並びに新円切替」の奥の手もあるで・・・
神奈川県秦野市の「葉タバコ農家」の次男に生まれた義兄は「葉タバコ生産は結構実入りが良かった。ただ刈入の際に手がべとべとして大変だったなあ」と言っていた。今の秦野というか神奈川県には葉タバコ農家はないようだが、葉タバコは全国的には結構生産性の高い作物らしい。「マイナビ農業」2020年9月2日「儲かる農業 葉たばこ農家の実態とは 安定収入を見込める新たな農業の選択肢に」から。
<農業の中でも、葉たばこというとマイナーなイメージがありますが、北は青森から南は沖縄まで全国至るところで生産されている作物です。注目すべきは、その年の作付け前に価格が決定し、全量買い上げ制度など独自の契約栽培方式を取っていること。その年の天候や生産量などによって、価格が大きく左右されがちな他の農作物にはない特長です。さらに、就農前から就農後に至るまで手厚いサポートが受けることができるのも、葉たばこ栽培ならではの魅力です。
葉たばこの生産では全国トップ10に入る鹿児島県。県本土全域と離島の種子島・沖永良部島で栽培されています。一説によると、日本で初めて葉たばこが栽培され始めたのも今回取材した地、鹿児島県だそうです。高齢化などの問題に伴い、県下の栽培面積は2019年で約404haと減少傾向にありますが、1戸あたりの面積は約2haとほぼ横ばいを保っています。
ここで注目したいのは販売代金(収益)です。1戸あたりの年収は、地域で差はあるものの平均1000万円超。しかも、この収益は種を播く段階から見込めることが葉たばこ生産の大きな特長と言えます。
葉たばこのシーズンが始まるのは、毎年12月。土づくりをした後、1月に種まきをして、3月には畑に定植。5月には、青々と育った葉たばこの葉っぱに栄養が行き渡るように心止(しんどめ、花芽を切り落とす)作業を行います。ここからが収穫のシーズン。下の葉っぱから収穫作業が始まり、上の葉っぱを摘み終える7月末頃まで続きます。
5月から7月までの収穫の時期は収穫後の葉の乾燥作業も同時進行のため、休む暇もないほど忙しいそうですが、8月になると作業は一段落。次の年に向けた畑の耕耘や機械の整備などの準備作業はあるものの、趣味や家族との時間もたっぷり取れるそうです。
このため多くの葉たばこ農家は農地や機械、労働力の空いた時期に他作物を栽培する複合型経営を行い、先を見通した投資をしながら安定した農業経営を行っています>
江戸時代まで国家の基本的な産業は農業中心の農林水産業だった。国民を飢餓から守ることができなければ統治できない。国家秩序は「衣食足りて礼節を知る」が一丁目一番地だ。次いで工業、商業、サービス業へと発展させる・・・そこそこゆとりができると嗜好品も必要になるが、依存性の高い酒とタバコは今でも多くの国で国家財政に必要不可欠な税収源になっているだろう。
ロシアは伝統的にタバコ天国だったが、今は健康オタクのようなプーチンによって随分規制されるようになった。しかし革命から間もない1923~1929年のソ連では喫煙は大いに奨励され、タバコを買うと抽選で馬や牛が当たるといった懸賞付きもあったそうだ。タバコ税が重要な税収源だったのだろう。
<「ファルツォフカ」とはソ連の闇取引のことで、外国製品を手に入れて横流しすること。その闇屋を「ファルツォフシク」といった。これは単なる不正なビジネスではなく、ひとつの生き方であり、サブカルチャーだった。
ジーンズ、ブーツ、その他のおしゃれなアイテムのほかに、闇屋たちは“本物の”ビニール製商品、外国製のアルコール飲料、初期のオーディオシステム、タバコ(とくにマルボロ)、さらにはカラフルなブランド物のビニール製バッグまで商った。政府がそれらのグッズへのアクセスを制限していたソ連では、人々は外国のものなら何でもかんでも貪欲に欲しがった>(ロシアビヨンド2018年5月26日)
そう言えば父が蓄財したのは戦後の米軍座間キャンプ勤務時代にセキュリティガード(警備員)の地位を利用して「ラッキーストライク」を横流ししたことによる。食糧事情が悪い→タバコで癒す、というのは多くの国で共通しているようで、現金並みに換金性が高いのも魅力だろう。
闇ドルというのも世界中で流行した。信用できな自国通貨よりドルなら何でも買えたからだ。「ソ連で米ドルを所有することは違法だったか」(ロシアビヨンド2020年12月2日)から。
<ソビエト市民は1927年に外貨から隔絶された。この年にボリシェヴィキ政権が民間の外貨市場を禁じたのだ。それまではどの国の通貨でも、自由に売ったり、保管したり、送金したりすることができた。そしてちょうど10年後に刑法25条が現れ、ここで通貨取引を政治犯罪に相当する罪とすることが定められた。
ドルを持つことを禁じる理由を、スターリンは次のように説明している。「もし社会主義国家が自国の通貨を資本主義の通貨と結び付けるなら、自立した安定的な金融経済システムを、社会主義国家は忘れなければならない」
違法に通貨を取引した者は、8年以下の懲役刑に処された。1961年にはフルシチョフ政権下で刑法88条が現れ、最低でも3年間の自由の剥奪、額が大きければ死刑(銃殺刑)に処されると定められた。
両替商の取り締まりがこれほど厳しかったのは、禁制の裏で闇両替が横行していたことによる。まさに闇市場でルーブルの米ドルに対する実際の相場が決まっていたのだ。1ドルは公式の67コペイカ(例えば67銭)ではなく、闇では8~10ルーブル(例えば30円)だった。
両替商は、外国人観光客をホテルのそばでそそのかしてドルを買い占めていた。両替の提案を聞いた外国人は喜んで合意した。闇両替商はソビエトの銀行の公式の相場の5~6倍の値でドルを買ったからだ。
外貨を違法に所有することに対するスターリンの禁制と「銃殺条項」は1994年まで残っていた。ただし、一部の人の回想によれば、それより前から当局は闇両替に目をつぶるようになっていたという。「私は量り売りのウォッカ100グラムを2杯、ハムの載ったオープンサンドを2枚注文し(これは90年頃のことだ)、黙って人生初のドル(人からもらったもの)を置いた。すると向こうも黙ってルーブルで釣り銭を出した」>
ソ連の経済は第2次大戦後も軍拡競争のために重工業優先で、民生(国民の生活・生計)はないがしろにされたままだった。特権階級の党員は潤ったが、国民の生活は先進国に比べると差が大きく開いていった。
<1946~1947年の飢饉は、凄惨な第二次世界大戦と、1946年に起きた旱魃の直接の結果だ。旱魃は当然、不作をもたらした。しかしこの飢饉は、実は回避できたはずだ、ソ連には、膨大な量の穀物が備蓄されていたのだから。もしソ連政府が海外への穀物輸出を増やす(戦前のレベルのほぼ2倍)という悲惨な決定を下していなければ・・・
さらに、かつての同盟国(連合国)との新たな戦争を懸念して、ソ連当局は農産物の備蓄を維持しようとし、地域への食料放出を拒んだうえ、強制的な食料品納入のノルマも減らさなかった。飢饉の結果、最大150万人が死亡した>(ロシアビヨンド2020年5月21日)
毛沢東・中共は建国後、ソ連を真似て無理やり重工業化を目指し、さらに文革で建国以来、1億人を餓死または不自然死させた。今、毛沢東の果たせなかった世界制覇を成し遂げようという習近平は大急ぎで戦時体制を構築しつつある、それもバレバレのやり方で。毛沢東は「農村で都市を包囲する」というゲリラ戦で内戦に勝ったが、習近平は「一国でインド・太平洋を制覇する」つもりのようだ。ほとんど狂気の沙汰。古森義久氏「崖っ淵に立つ日本の決断」(Japan-indepth2021/1/4)から。
<令和3年、2021年の冒頭に立って、わが日本を国際的にみると、まさにこの国は崖っ淵に立ったようにみえる。その日本を取り巻くいまの世界を見渡せば、古い表現だが、まさに天下大動乱である。アメリカと中国との衝突が全世界を揺さぶる。軍事や経済のパワーという点で世界第一の大国と第二の大国とが正面から対決するのだ。
その激突の巨大なうねりは全世界の既成の秩序を根幹から変える地殻変動のようである。その地殻変動は日本にいったいなにを意味するのか。気鋭のジャーナリストの門田隆将氏と多角的に意見を交わして、一冊の本にまとめた。PHP研究所刊『崖っ淵に立つ日本の決断』という書である。
日本にとってもっとも巨大な影響を及ぼすアメリカと中国という二つの国が激突する。その谷間での日本の身の処し方には国運がかかっている。激しく対立するアメリカと中国のどちらに身を寄せるのか、という日本の課題はいまや従来の「等距離」とか「橋渡し」などという定型の外交パターンでは乗り切れない。
それでなくても日本には中国の軍事脅威が迫ってきた。日本の固有の領土の尖閣諸島を中国は軍事力を使ってでも奪取しようと、連日のように攻勢をかけてくる。尖閣諸島に対する日本の主権や施政権を骨抜きにする中国の軍事攻勢が目前に迫ったのである。この事態だけでも日本の国難だといえる。
本書では門田氏とともに、こうした世界の天下大動乱、日本の国難を引き起こした張本人は中華人民共和国の共産党政権であることを多数の実例をあげて、立証したつもりである。むろんアメリカや日本がその中国のいまの国際秩序を侵し、崩そうとする動きを誘発するような原因をつくったという事例も多々あった。
だが問題の核心はやはり中国共産党政権の本質だといえよう。国内で弾圧し、国際規範を犯し、軍事力で脅し、経済力で圧する。既成の世界の秩序を覆そうとする。
中国の自由民主主義世界へのこうした敵対性を私が初めて実感したのは1997年夏だった。そのとき駐在していたアメリカのワシントンから中国への返還が決まった香港に出かけて、その歴史的な返還のドラマを取材して、報道したのだった。
その時点で私はすでに20数年の国際報道の経験を積んでいたが、中華圏での取材活動は初めてだった。香港での3ヵ月ほど、イギリスから中国への香港返還に関する新聞記事は無数に書いたが、総括としての長い雑誌論文として「日中友好という幻想」という論考をまとめた。
当時は日本側でも中国に関してはとにかく「友好」という言葉があふれていた。中国政府への批判的な言辞は日本では官民ともに皆無に近かった。だが私は香港での多数の人たちとの意思疎通で、中国のあり方に日本やアメリカへの敵対性の本質を感知せざるを得なかったのだ。
ちなみに「日中友好という幻想」という論文は当時の台湾総統だった李登輝氏の目にとまり、「このテーマについて私も語りたいので台北にきませんか」と招きを受けた。もちろん私はそれに応じ、中華圏での取材活動を深めていった。その翌年の1998年には産経新聞の北京駐在の初代中国総局長となったのだ。
それ以来の20数年、私は中国という主題と本格的に取り組むこととなった。中国の対外姿勢にとくに関心を払い、米中関係、日中関係の動きを追った。その体験での最大の要素も香港で感じた中国共産党政権が固有の本質とする自由民主主義世界への敵対性だった。
その敵対性を指摘する私の報道や論評は日本では「反中」というレッテルと貼られることもあった。アメリカの首都ワシントンでも関与政策の名の下での対中融和の流れにそぐわないこともあった。
だがアメリカでも日本でもその後、中国に対する態度は硬化していった。中国共産党政権自身の内外での敵対的な言動が自然な反発を生んでいったのだ。中国政権の外部世界への敵対性という現実が重みを発揮したといえよう。
日本の戦後の対中政策は日本外交でも最大級の歴史的な失態だった。巨額の政府開発援助(ODA)を中国に供与することで、日本を敵視する軍事独裁大国の中国の現出にみずから力を貸したのだった。日本国民の血税である約4兆円ものその中国への援助は中国の軍事力増強を助け、民主主義の弾圧をも支える結果となった。日本側が当初に期待した中国側の対日友好の促進にはなんの役にも立たなかった。私はこのあたりの日本の対中援助の失敗を『ODA幻想』(海竜社)という本にまとめた。
中国に対する私のこうした一貫した認識は現代日本のジャーナリズムの先頭を走る門田氏によっても本書全体を通じて認知されたことは望外の喜びだった。
こうした失態をも経てきたわが日本がいまや最大の脅威、最大の懸念の根源となる中国にどう対応すべきか、その日本のいまの立場こそ「崖っ淵に立つ日本の決断」なのである>
習近平・中共が押し出して来る前に「中共包囲網」を確かなものにし、中共をソ連の二の舞を踏むようにしなければならない。防疫や貿易は重要事項であるが、最優先すべき課題、最大の危険は中共によるインド・太平洋侵略である。最早、米国は当てにはできない。「国破れて山河在り 城春にして草木深し」と涙を流すのか、日本を取り戻すのか、決断の時である。
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/231(2021/1/9/土】正月に帰省した長男坊は「俺、タバコやめた、全然苦痛じゃなかった」と言う。1日に5本ほどだから楽に禁煙できたのだろう。小生は母の介護もあって58歳でリタイアして以来、自室でのんびりパイプタバコを楽しんでいるが、窓の外に顔を出しているのでチト寒い。室内で吸うと大事になるから・・・ま、妥協というか、仕方がない。
贔屓にしているタバコ屋のご主人によるとタバコ売上は激減、「量販店に設置した自販機1台だけで月に200万円もあったのに、今はお話になりません」という。日本たばこ協会によると販売額は1999年(以下年度)の4兆2600億円からジリ貧になり2019年は2兆8063億円に。タバコは税金の塊(62%)だが、税収もついに2兆円を切った。
<2018年度では、総額で1兆9752億円(国たばこ税8613億円、地方たばこ税9891億円、たばこ特別税1248億円)が税金として納められています>
為政者にとってはタバコは「打ち出の小槌」、プカプカやってもらえべ2兆円、国民1人当たり2万円のカネが入ってくる・・・美味しいなあ、手放せない財源だ。
しかし前途は容易ではない。喫煙者の減少を値上げでカバーして2兆円の税収を確保してきたが、これからは1兆円台が当たり前になりそうだ。今はコロナ禍と人口減もあって消費が冷え切っているから消費税も当てにはできない。
かくして国の借金(国債)は増えるばかりだが、「親からカネを借りているようなものだからどうってことない、そのカネで消費を拡大して景気をつけ、インフレにすれば借金は目減りするし税収も増える。財政健全化をごり押しすると角を矯めて牛を殺すことになるぞ」という説もあるから、門外漢の小生も楽観視しておこう。ギリシャやイタリアも生きているし、イザとなれば「預金封鎖並びに新円切替」の奥の手もあるで・・・
神奈川県秦野市の「葉タバコ農家」の次男に生まれた義兄は「葉タバコ生産は結構実入りが良かった。ただ刈入の際に手がべとべとして大変だったなあ」と言っていた。今の秦野というか神奈川県には葉タバコ農家はないようだが、葉タバコは全国的には結構生産性の高い作物らしい。「マイナビ農業」2020年9月2日「儲かる農業 葉たばこ農家の実態とは 安定収入を見込める新たな農業の選択肢に」から。
<農業の中でも、葉たばこというとマイナーなイメージがありますが、北は青森から南は沖縄まで全国至るところで生産されている作物です。注目すべきは、その年の作付け前に価格が決定し、全量買い上げ制度など独自の契約栽培方式を取っていること。その年の天候や生産量などによって、価格が大きく左右されがちな他の農作物にはない特長です。さらに、就農前から就農後に至るまで手厚いサポートが受けることができるのも、葉たばこ栽培ならではの魅力です。
葉たばこの生産では全国トップ10に入る鹿児島県。県本土全域と離島の種子島・沖永良部島で栽培されています。一説によると、日本で初めて葉たばこが栽培され始めたのも今回取材した地、鹿児島県だそうです。高齢化などの問題に伴い、県下の栽培面積は2019年で約404haと減少傾向にありますが、1戸あたりの面積は約2haとほぼ横ばいを保っています。
ここで注目したいのは販売代金(収益)です。1戸あたりの年収は、地域で差はあるものの平均1000万円超。しかも、この収益は種を播く段階から見込めることが葉たばこ生産の大きな特長と言えます。
葉たばこのシーズンが始まるのは、毎年12月。土づくりをした後、1月に種まきをして、3月には畑に定植。5月には、青々と育った葉たばこの葉っぱに栄養が行き渡るように心止(しんどめ、花芽を切り落とす)作業を行います。ここからが収穫のシーズン。下の葉っぱから収穫作業が始まり、上の葉っぱを摘み終える7月末頃まで続きます。
5月から7月までの収穫の時期は収穫後の葉の乾燥作業も同時進行のため、休む暇もないほど忙しいそうですが、8月になると作業は一段落。次の年に向けた畑の耕耘や機械の整備などの準備作業はあるものの、趣味や家族との時間もたっぷり取れるそうです。
このため多くの葉たばこ農家は農地や機械、労働力の空いた時期に他作物を栽培する複合型経営を行い、先を見通した投資をしながら安定した農業経営を行っています>
江戸時代まで国家の基本的な産業は農業中心の農林水産業だった。国民を飢餓から守ることができなければ統治できない。国家秩序は「衣食足りて礼節を知る」が一丁目一番地だ。次いで工業、商業、サービス業へと発展させる・・・そこそこゆとりができると嗜好品も必要になるが、依存性の高い酒とタバコは今でも多くの国で国家財政に必要不可欠な税収源になっているだろう。
ロシアは伝統的にタバコ天国だったが、今は健康オタクのようなプーチンによって随分規制されるようになった。しかし革命から間もない1923~1929年のソ連では喫煙は大いに奨励され、タバコを買うと抽選で馬や牛が当たるといった懸賞付きもあったそうだ。タバコ税が重要な税収源だったのだろう。
<「ファルツォフカ」とはソ連の闇取引のことで、外国製品を手に入れて横流しすること。その闇屋を「ファルツォフシク」といった。これは単なる不正なビジネスではなく、ひとつの生き方であり、サブカルチャーだった。
ジーンズ、ブーツ、その他のおしゃれなアイテムのほかに、闇屋たちは“本物の”ビニール製商品、外国製のアルコール飲料、初期のオーディオシステム、タバコ(とくにマルボロ)、さらにはカラフルなブランド物のビニール製バッグまで商った。政府がそれらのグッズへのアクセスを制限していたソ連では、人々は外国のものなら何でもかんでも貪欲に欲しがった>(ロシアビヨンド2018年5月26日)
そう言えば父が蓄財したのは戦後の米軍座間キャンプ勤務時代にセキュリティガード(警備員)の地位を利用して「ラッキーストライク」を横流ししたことによる。食糧事情が悪い→タバコで癒す、というのは多くの国で共通しているようで、現金並みに換金性が高いのも魅力だろう。
闇ドルというのも世界中で流行した。信用できな自国通貨よりドルなら何でも買えたからだ。「ソ連で米ドルを所有することは違法だったか」(ロシアビヨンド2020年12月2日)から。
<ソビエト市民は1927年に外貨から隔絶された。この年にボリシェヴィキ政権が民間の外貨市場を禁じたのだ。それまではどの国の通貨でも、自由に売ったり、保管したり、送金したりすることができた。そしてちょうど10年後に刑法25条が現れ、ここで通貨取引を政治犯罪に相当する罪とすることが定められた。
ドルを持つことを禁じる理由を、スターリンは次のように説明している。「もし社会主義国家が自国の通貨を資本主義の通貨と結び付けるなら、自立した安定的な金融経済システムを、社会主義国家は忘れなければならない」
違法に通貨を取引した者は、8年以下の懲役刑に処された。1961年にはフルシチョフ政権下で刑法88条が現れ、最低でも3年間の自由の剥奪、額が大きければ死刑(銃殺刑)に処されると定められた。
両替商の取り締まりがこれほど厳しかったのは、禁制の裏で闇両替が横行していたことによる。まさに闇市場でルーブルの米ドルに対する実際の相場が決まっていたのだ。1ドルは公式の67コペイカ(例えば67銭)ではなく、闇では8~10ルーブル(例えば30円)だった。
両替商は、外国人観光客をホテルのそばでそそのかしてドルを買い占めていた。両替の提案を聞いた外国人は喜んで合意した。闇両替商はソビエトの銀行の公式の相場の5~6倍の値でドルを買ったからだ。
外貨を違法に所有することに対するスターリンの禁制と「銃殺条項」は1994年まで残っていた。ただし、一部の人の回想によれば、それより前から当局は闇両替に目をつぶるようになっていたという。「私は量り売りのウォッカ100グラムを2杯、ハムの載ったオープンサンドを2枚注文し(これは90年頃のことだ)、黙って人生初のドル(人からもらったもの)を置いた。すると向こうも黙ってルーブルで釣り銭を出した」>
ソ連の経済は第2次大戦後も軍拡競争のために重工業優先で、民生(国民の生活・生計)はないがしろにされたままだった。特権階級の党員は潤ったが、国民の生活は先進国に比べると差が大きく開いていった。
<1946~1947年の飢饉は、凄惨な第二次世界大戦と、1946年に起きた旱魃の直接の結果だ。旱魃は当然、不作をもたらした。しかしこの飢饉は、実は回避できたはずだ、ソ連には、膨大な量の穀物が備蓄されていたのだから。もしソ連政府が海外への穀物輸出を増やす(戦前のレベルのほぼ2倍)という悲惨な決定を下していなければ・・・
さらに、かつての同盟国(連合国)との新たな戦争を懸念して、ソ連当局は農産物の備蓄を維持しようとし、地域への食料放出を拒んだうえ、強制的な食料品納入のノルマも減らさなかった。飢饉の結果、最大150万人が死亡した>(ロシアビヨンド2020年5月21日)
毛沢東・中共は建国後、ソ連を真似て無理やり重工業化を目指し、さらに文革で建国以来、1億人を餓死または不自然死させた。今、毛沢東の果たせなかった世界制覇を成し遂げようという習近平は大急ぎで戦時体制を構築しつつある、それもバレバレのやり方で。毛沢東は「農村で都市を包囲する」というゲリラ戦で内戦に勝ったが、習近平は「一国でインド・太平洋を制覇する」つもりのようだ。ほとんど狂気の沙汰。古森義久氏「崖っ淵に立つ日本の決断」(Japan-indepth2021/1/4)から。
<令和3年、2021年の冒頭に立って、わが日本を国際的にみると、まさにこの国は崖っ淵に立ったようにみえる。その日本を取り巻くいまの世界を見渡せば、古い表現だが、まさに天下大動乱である。アメリカと中国との衝突が全世界を揺さぶる。軍事や経済のパワーという点で世界第一の大国と第二の大国とが正面から対決するのだ。
その激突の巨大なうねりは全世界の既成の秩序を根幹から変える地殻変動のようである。その地殻変動は日本にいったいなにを意味するのか。気鋭のジャーナリストの門田隆将氏と多角的に意見を交わして、一冊の本にまとめた。PHP研究所刊『崖っ淵に立つ日本の決断』という書である。
日本にとってもっとも巨大な影響を及ぼすアメリカと中国という二つの国が激突する。その谷間での日本の身の処し方には国運がかかっている。激しく対立するアメリカと中国のどちらに身を寄せるのか、という日本の課題はいまや従来の「等距離」とか「橋渡し」などという定型の外交パターンでは乗り切れない。
それでなくても日本には中国の軍事脅威が迫ってきた。日本の固有の領土の尖閣諸島を中国は軍事力を使ってでも奪取しようと、連日のように攻勢をかけてくる。尖閣諸島に対する日本の主権や施政権を骨抜きにする中国の軍事攻勢が目前に迫ったのである。この事態だけでも日本の国難だといえる。
本書では門田氏とともに、こうした世界の天下大動乱、日本の国難を引き起こした張本人は中華人民共和国の共産党政権であることを多数の実例をあげて、立証したつもりである。むろんアメリカや日本がその中国のいまの国際秩序を侵し、崩そうとする動きを誘発するような原因をつくったという事例も多々あった。
だが問題の核心はやはり中国共産党政権の本質だといえよう。国内で弾圧し、国際規範を犯し、軍事力で脅し、経済力で圧する。既成の世界の秩序を覆そうとする。
中国の自由民主主義世界へのこうした敵対性を私が初めて実感したのは1997年夏だった。そのとき駐在していたアメリカのワシントンから中国への返還が決まった香港に出かけて、その歴史的な返還のドラマを取材して、報道したのだった。
その時点で私はすでに20数年の国際報道の経験を積んでいたが、中華圏での取材活動は初めてだった。香港での3ヵ月ほど、イギリスから中国への香港返還に関する新聞記事は無数に書いたが、総括としての長い雑誌論文として「日中友好という幻想」という論考をまとめた。
当時は日本側でも中国に関してはとにかく「友好」という言葉があふれていた。中国政府への批判的な言辞は日本では官民ともに皆無に近かった。だが私は香港での多数の人たちとの意思疎通で、中国のあり方に日本やアメリカへの敵対性の本質を感知せざるを得なかったのだ。
ちなみに「日中友好という幻想」という論文は当時の台湾総統だった李登輝氏の目にとまり、「このテーマについて私も語りたいので台北にきませんか」と招きを受けた。もちろん私はそれに応じ、中華圏での取材活動を深めていった。その翌年の1998年には産経新聞の北京駐在の初代中国総局長となったのだ。
それ以来の20数年、私は中国という主題と本格的に取り組むこととなった。中国の対外姿勢にとくに関心を払い、米中関係、日中関係の動きを追った。その体験での最大の要素も香港で感じた中国共産党政権が固有の本質とする自由民主主義世界への敵対性だった。
その敵対性を指摘する私の報道や論評は日本では「反中」というレッテルと貼られることもあった。アメリカの首都ワシントンでも関与政策の名の下での対中融和の流れにそぐわないこともあった。
だがアメリカでも日本でもその後、中国に対する態度は硬化していった。中国共産党政権自身の内外での敵対的な言動が自然な反発を生んでいったのだ。中国政権の外部世界への敵対性という現実が重みを発揮したといえよう。
日本の戦後の対中政策は日本外交でも最大級の歴史的な失態だった。巨額の政府開発援助(ODA)を中国に供与することで、日本を敵視する軍事独裁大国の中国の現出にみずから力を貸したのだった。日本国民の血税である約4兆円ものその中国への援助は中国の軍事力増強を助け、民主主義の弾圧をも支える結果となった。日本側が当初に期待した中国側の対日友好の促進にはなんの役にも立たなかった。私はこのあたりの日本の対中援助の失敗を『ODA幻想』(海竜社)という本にまとめた。
中国に対する私のこうした一貫した認識は現代日本のジャーナリズムの先頭を走る門田氏によっても本書全体を通じて認知されたことは望外の喜びだった。
こうした失態をも経てきたわが日本がいまや最大の脅威、最大の懸念の根源となる中国にどう対応すべきか、その日本のいまの立場こそ「崖っ淵に立つ日本の決断」なのである>
習近平・中共が押し出して来る前に「中共包囲網」を確かなものにし、中共をソ連の二の舞を踏むようにしなければならない。防疫や貿易は重要事項であるが、最優先すべき課題、最大の危険は中共によるインド・太平洋侵略である。最早、米国は当てにはできない。「国破れて山河在り 城春にして草木深し」と涙を流すのか、日本を取り戻すのか、決断の時である。
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp