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雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(135」

2021-01-13 08:48:46 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(135」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/232(2021/1/13/水】有楽町、銀座、新橋、虎ノ門、新宿・・・現役時代は月水金はその辺りでよく飲んでいた。基本的に場末とか裏通り、陋巷の居酒屋、小料理屋だった。気の置けない、安くて美味い、窮屈な、庶民の店。一人あたり3000~4000円、上司と行けば上司が払う、部下と行けば小生が払う。会社が気前よく接待交際費で処理してくれたから助かった。


酔った勢いでソープやラブホまで行って、一晩で給料がパーということもあったが、酒飲みに甘い時代だったからバカにされるどころか「豪傑」として上司から褒められたものである。上司は仲人になってくれた。


起業してからは顧客の接待もありバカに拍車がかかって毎晩飲み会。今から思えば変な時代だが、出銭入銭、カネが滞留せずによく動いていた。バブルを挟んだ1975~2001年の25年間はまずますイケイケドンドン、1995年前後からアナログからデジタルへの大革命で、昨日まで原稿やデザインは手書きだったのに一気にキーボードとマウスになった感じ。それに付いていけなければ仕事にならないのだから、銀行から金を借りてでも最新式にしていくしかない。ジャブジャブ借りてジャブジャブ使う、そういう時代だった。


アナログ時代は、原稿を書き終えてどうにか締め切りに間に合わせ、出版社に届け、そして担当者や美形のお嬢さんと陋巷の飲み屋に行く、という人間臭い接触が主流だったが、デジタル化でそれらがなくなった上に、「お先に」と退社した後もケータイ、スマホで追いかけられるから、ずいぶん無粋な世の中になってしまった。ま、舞台下手に去る老人の愚痴だが・・・


荷風の「墨東綺譚」を評論家は「作者の反時勢的な文明批評と陋巷(ろうこう)・狭斜(きょうしゃ)趣味とが渾然一体となった、昭和期の代表作」と評しているが、「狭斜」とは何か。


「もと、中国長安の道幅の狭い街の名で、そこに遊里があったところから花柳街、遊里、色里、色町。狭斜の巷(ちまた)」


陋巷狭斜、裏通り、小生は好きだなあ、ほっとする、暖簾をくぐると「お帰りなさい!」と出迎えてくれる小料理屋・・・北京などでもちょっと裏通りに行けば昔の四合院(しごういん、伝統的家屋)、陋巷狭斜の趣が残っていると聞いたことがあるが、新宿の歌舞伎町、小便横丁みたいに怪しいディープなところもあるのだろうか。人情を知らないガサツな習近平に一掃されたのかも知れない。ところがハイテク都市の深センには東京のドヤ街「山谷」みたいなところがあるという。


<山谷(さんや)は台東区北東部にあった地名。現在の清川・日本堤・東浅草付近を指した 。一時期、遊廓が置かれたことから、吉原遊廓を指す場合もあった 。安宿が多かったことから労働者が集まるようになり、台東区・荒川区にある寄せ場(日雇い労働者の滞在する場所、俗に言うドヤ街)の通称として使われる様になった>(WIKI)


「山谷ブルース」という歌も流行ったっけ。小生は2007年あたりに仕事で山谷のスーパーシマダヤ日本堤店にはよく行ったが、一帯はドヤ街の風情というかゴミだらけの汚さは健在だった。しかし元・日雇い労働者の老人ばかりが目立ち、生活保護の人は簡易宿暮らし。一方で生活保護を受けられない(戸籍がない?)人は街路でゴロゴロしていたが、ゴロゴロ派の多くは朝から酔っぱらっているようだった(カネをどうやって工面しているのか?)。山谷の全盛期はそれなりに活気があったのだろうが、2007年あたりは「腐食して朽ちつつある町」の風情だった。


この山谷の“中国版掃き溜め 青春バージョン”のような陋巷が安田峰俊著「さいはての中国」で紹介されている。いやはや絶望地獄、凄まじい。以下は要点。


<深セン市郊外の景楽新村、現地にある「三和人力市場」という職安の名をとって「三和、サンホォ」と呼ばれている。


かつての深センはさびれた小都市だったが、改革開放政策を提唱したトウ小平の肝煎りで経済特区に指定されると、先進地域の香港に隣接する地の利を生かして急速に発展した。習近平の父、習仲勲の功績も大きく、晩年に彼の隠居地ともなったことから、習近平ファミリーとの縁も深い。(修一:習近平の妻と娘は隣町の香港に友人が多いため、習の香港弾圧を許せなかったのだろう)


現在、深センは市民一人当たりGDPが国内主要として1位の金持ち都市だ。2000年以降は産業の主軸をIT・サイバー分野に転換、テンセントなど中国を代表する企業各社が本社を置く。物価もかなり高く、外食する場合は日本よりもお金がかかることも多い。だが、深センにはもう一つの顔がある。


シャープの親会社の台湾企業・鴻海(ホンハイ)の40万人規模の大工場をはじめ、エプソン、ファーウェイ、BYDなどの生産拠点が多数あり、製造ラインを担う短期雇用の単純労働者を常に求めているのだ。その求人を担う場所の一つが「三和」一帯の職業斡旋所である。


三和の付近では、食い扶持を求める若き求職者たちが中国各地から集まり、スラム街を形成している。中国が貧しかった時代はありふれた光景だったが、近年の深センがスマートな先進都市として名を知られたことで、ギャップの大きさが目立つようになった。


近年、規制されたが、野宿をする人も多かった。三和とは別の職安である海信人力市場の前に伸びる長細いコンクリートの段は、以前は雨露をしのげる野宿所として人気で、冗談交じりに「海信大酒店(海信ホテル)」と呼ばれていた。現在、野宿者の多くは三和から数百メートル離れた龍華公園の周囲に寝泊まりしている。


三和と会心の人力市場がある場所に隣り合った二つの住宅区は、ひとまず宿代を支払える人たちの仮の生活拠点である。一部屋を複数人で用いる1泊15元(240円)程度の簡易宿泊所や、市内他地域の5分の1程度の価格で食事できる安食堂、アングラじみたネットカフェ(ネカフェ)などが軒を連ねている。


踏切上のゲートを越えて区画内に入る。コンクリートの路面には腐ったカップ麺の臭いが漂い、一年中湿気が抜けないせいで青黒い水苔が繁茂していた。昼間でも薄暗い。黒ずんだ壁の建物ばかりの街で、ド派手なネットゲーム(ネトゲ)のキャラクターを全面にあしらったネカフェの看板だけが異常に鮮やかな色彩を添えていた。


この街はいわば「あしたのジョー」や「じゃりン子チエ」に登場した昭和時代の「ドヤ街」の現代中国版だ。それが経済成長を続ける21世紀の中国にもあるわけだ。


多くの20~30代の短期労働者たちは、どんなに貧しくてもスマホを持ち、パソコンも使える。働き先は土木建築の現場よりも、スマホやタブレットPCを製造するデジタル工場が選ばれる。彼らが稼いだ金を注ぎ込む先も、ネトゲやスマホのアプリ課金、オンラインカジノといったサイバーな娯楽が多い。


三和に数十件も軒を連ねる格安ネカフェは、メールの送受信やウェブ検索のためではなく、もっぱらネトゲとオンラインカジノで遊ぶための施設だ。日本のパチンコ屋やゲーセンに近い存在なのである。


「1日働けば3日遊べる――」、若き短期労働者たちは、自分たちの刹那的な生活をそんな言葉で皮肉る。月に2週間ほど、無味乾燥な工場のラインに立って労働に従事し、カネが貯まればサイバー娯楽につぎ込んで、軍資金が切れれば再び工場に戻る。


今なおマルクス・レーニン主義を標榜する共産党政権の下で社会主義国家の看板を掲げつつも、日本よりもはるかに大きな所得格差が存在する中国社会。その低層でうごめく、人生の大部分をデジタルに支配された下層労働者たち。


いわば「サイバー・ルンペンプロレタリアート」が三和には大勢いる>


脳内毛沢東疾患の習近平は建国100周年の2049年にまでに世界制覇を成し遂げ、天安門壇上から世界へ向けてこう宣言するつもりだろう。


「東風は西風を制し、世界はマルクス、レーニン、毛沢東同志の遺志をここに実現した。先人があまたの血を流して目指した世界社会主義連邦はここに成立し、共産主義ユートピア社会へ向けて偉大なる一歩を歩み始めたのだ。右派反動勢力との熾烈な戦いで我々は多くの同志を失ったが、敵は壊滅し、30億の同志は今、朝の太陽のように光り輝いている。新しい世界は我々のものだ、同志諸君のものだ、核戦争に耐えたすべての人民のものだ。世界統一万歳、世界社会主義連邦万歳。私は常に同志諸君とともにある」


まあ、夢を見るのは勝手だが、一寸先は闇。頓死、事故死、近年ではロシア風毒殺や米流ピンポイント爆殺は珍しくないし、習近平の運勢は今年は良くないとか。習同志、世界は日の入りを待っている、三角帽子を頭に載せて、お先にどうぞ。


そう言えばコロナ禍真っ盛りの昨秋、元祖パンダハガーのキッシンジャーは「いまの米中関係はきわめて危険な状態にあり、もし両国がこのまま高まる緊張をうまく管理できなければ、両国は第一次世界大戦時に似た状況へと落ち込んでいくだろう」と発言した。彼でさえ中共に騙されていたのだから世界中の指導者のなかで騙されなかったのは、絶対に人を信じないプーチンだけだったのではないか。蛇の道は蛇、さすが一流の殺し屋、ゴルゴ13並だ。


若きキッシンジャーはドゴールを高く評価していたが、彼はドゴールのどこに感銘を受けたのか。前回に続いて伊藤貫著「歴史に残る外交三賢人」から学ぼう。


<ドゴールの「国際政治の多極化戦略」は以下の5項目であった。


A)米国の覇権主義外交を牽制し拘束する。ドゴールは1960年代のケネディ、ジョンソン両政権の軍事・外交政策を「未熟で傲慢、そして一方的。大国としての責任感に欠けている」と批判していた。特に軽率、浅慮なケネディの一方的な外交政策は、ドゴールに「現在のフランスの自治と独立にとって真に危険な国はソ連ではなく米国である」と確信させた。


特に当時の国際政治にとって全く不必要だった「ベトナム戦争介入」や「キューバ・ミサイル危機」を引き起こしたのは、米国マスコミが“若くてハンサムな英雄”と持てはやしていた未熟で浅慮なケネディであった。(修一:買い物病の妻と娘のイルカ大使を見ればケネディと民主党のダメさが分かる)


米国の傲慢浅薄な覇権主義を拘束するための「国際構造多極化戦略」は「国際関係を安定させるために必要な措置」なのだった>(続く)


あれも書きたい、これも書きたいと思うのだが、体力の劣化で風邪が抜けない、情けない。散歩しなければ気分が晴れないし、散歩すれば鼻水だらだら、背中はゾクゾク・・・気力、根性が続かない、踏ん張りが効かない、そうだ!「廊下は走らない、老化は走ってやってくる」というのはいいコピーだな。


焦らずにマイペース、悠々自適で・・・悠々自適で何をするか、それが問題だ。老化は走ってやってくる、小生の背中に「地獄行き」のラベルを貼ろうとしている、多動老人は書くしか能がない、それが思うようにできない、ああ悔しい、残念無念、不完全燃焼・・・ま、皆そんなものか。


煩悩に苦しまないように天は老人に「呆け」「失神」を賜るのだろうが、正岡子規みたいに正気のまま激痛にのたうち回るというのは今はまずないのではないか。日本では事実上の安楽死が進んでいるようだ(無意味な延命治療は控える)。生き方も死に方もなかなか難しい。「解」らしいものを探し続けるのが人生か。
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp