AManTo天然芸術研究所

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logo (Dance&Sound Phenomenon シリーズLOGO VOL 1)

2004年07月03日 | Weblog
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5 JUNE 2004
Salon de AManTo

dance JUN
Sitar Tadao Ishihama
base Go Tushima

人が生まれてくる行為自体を運動、表現ととらえてみよう。 
そのギリギリの
表現は苦悩、快楽、怒り、哀しみ,すべてを内在させている混沌としたカオスだ
生まれてきて目を開き光をみて首がすわり腰がすわっても、伝え歩きをし言葉
を話しても、それはすべて表現行為としてココに存在しつつ同時にその運動は
それまでの自己の超越であり続けている。
超越により外界と内界の深遠を知るのだ。 自分とは世界とはその答を求めて
全生命を傾け自己を超越していく行為なのだ。 それが「DANCE」という行為
でもある。 それはあるときは舞のようにも踊りのようにもみえる。あるときは歌
や音楽のように又ある時は、物語や神話のようにも見える…。
そう、人はそういう意味で人生を舞いつづけるダンサーなのである。
舞は、すなわち見る人と踊り手の進化の共同体験、世界の共同創造の行為だ
したがってダンサーの自他の超越行為は最新の注意を払って意識的に行う
必要がある。人が一生で出会える人数はほんの少しでしかない。  あなたは
その一期一会を生ききる行為のために舞い続けなければならない…。
人は自分であきらめた時から自己の超越をやめてしまう。 ほとんどの四足の
生命体は二足歩行をして超越をあきらめてしまう。自分はこういうものだと自覚
するとともに自己を限定し超越を放棄する。
しかし舞人はそうであってはならない。舞人は最も身体意識を見つめる職業の
ひとつだ。  身体意識は内界と外界をつなぐ装置であり肉体はその乗り舟だ
熟練するほど遠くと近くをしる事ができる。世界の果てと自己の奥深くを紡いでい
ける。ダンスとはいつもそうでなくてはならない。舞え、跳べ、蠢くのだ。
全ての思想、全すべての世代、全ての文化、それを紡いでいくのが、身体活動
なのである。 全人類に平等に一つづつ与えられた、宇宙と同等に広大無辺の
可能性をもつ身体。 我々が天より与えられた身体にもっと注意を払う時こそ
全身全霊をもって全存在をかけて思考する肉体が突っ立って生まれる。
人類の進化を誘う身体哲学の誕生である。
その仕事の、最も直接的な能動者の一つが身体表現者「ダンサー」なのだとい
う事を忘れてはいけない。傾舞(KABUKU-MAI)語録 地の巻より「ODOEU(踊る)ということ」


JUNの日記[JUNgem]

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1 コメント

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LOGOを観て・・・ (norico)
2004-07-05 00:03:49
「言葉で表現する」という事に悩みました。



junさんのdanceを初めて観て、

「人が人に与える影響」って大きいんだと思いました。



無意識にしている自分の行動が、見ず知らずの人に、何かの感動、もしくは、不快感を与えている事。



「LOGO」って一体何?



死ぬ瞬間、走馬灯のように駆け巡るような一瞬、の「表現」なんじゃないかと・・・。



ちっぽけな人生が、自分の行動や、言動によって、多大な影響を起こしているという感動や恐怖。



ここに「自分」が居るという現実は、世の中の「動き」(dance)という、身体表現なのかもしれませんね。



私は、junさんの様に、「表現者」ではありませんが、自分の存在が、「人にとっていいもの」でありたいと願います。



また、機会があれば観に行きます。



junさんに与えてもらいに行きますね!
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