新版『南島イデオロギーの発生』― 柳田国男と植民地主義 (岩波現代文庫): 村井 紀(おさむ)
本書のもととなるものは,1992年に福武書店より出版された『南島イデオロギーの発生』で、
本書は2004年の文庫化にあたって,その一部を削除するとともに、柳田国男,早川孝太郎,伊波普猷、折口信夫などに関する記述があらたに編集されている。
amazon 商品の説明
出版社/著者からの内容紹介
山人論を放棄して,柳田はなぜ南島論へ転じたのか.日本人の起源を南島に求め,同質的な日本を見出す「新国学」たる民俗学の成立は柳田の韓国併合への関与によってもたらされた.その他,『花祭』で知られる早川孝太郎,沖縄学の父・伊波普猷も俎上にのせ,近代日本における民俗学と植民地主義との関連を徹底追及する新編集版.
奄美大島にいて、柳田国男といえば、
日本文化が沖縄諸島から南島づたいに伝播してきたという話の『海上の道』や『海南小記』くらいは読んだことがある。
近年の考古学的・言語学的調査などにより南方からの影響もそれなりにはあったとされが日本列島の文化を後に構成した要素の多くはやはりユーラシア大陸からもたらされたと近年では考えられている。wiki
本書は、農政官僚だった柳田国男が,日韓併合に関与し、そして日本の植民地政策の破綻を隠蔽するために見いだしたのが南島・沖縄ではないか、と説く。
アイヌ語研究の第一人者である金田一京助や、沖縄学の父・伊波普猷の日琉同祖論とともに、吉本隆明の南島論、それに島尾敏雄のヤポネシア論も俎上に載せられる。
p.338 島尾敏雄の「ヤポネシア」プランが登場するのは、1961年の「ヤポネシアの根っこ」からであるが彼の場合、県立図書館長としての奄美行き自体がすでに「あるべき」世界への”亡命”であり、特攻体験を反復し、その濃密な愛の家庭劇『死の辣』の主人公が「妻」の「心の中」にアルカイックな女性を見いだすのは、愛による、同情に基づく、内的支配・「オリエンタリズム」E・サイード)というぼかにない。オリエンタリズムはつねに、愛情による支配の物語である。もとより「ヤポネシア」の(日本列島)の「根っこ」奄美・沖縄)とは、「日本の原郷」・「原日本」を意味するにすぎない。日本のナショナリズムを「根っこ」から、相対化するというその主張は、実際には柳田らの「大陸」文明に対する。”排他性”をも共有するように、”ナショナリズム”そのものなのである。
この部分は、本書の一番わかりやい要約ともいえる著者による「新版へのあとがき」の次の部分とも重なる。
本書でいう 「南島イデオロギー」とは、日本のメディアが今日絶へず反復している南島・沖縄に日本の原郷・原日本を見る、沖縄表象のことである。それは観光パンフなど多様であるが、たとえばそのもっとも典型的なものに
、NHKの朝ドラ「ちゅらさん」(2001年)の世界がある。
南島・沖縄には、都会に住むあるいは本州に住む現代の私たちがはるか昔に見失った日本のノスタルジックな生活‐‐‐‐‐家族の絆をはじめ、古い素朴な信仰と生活世界‐‐‐近代文明に汚染されぬ美しい自然とともに見いだされ、ひたすら癒しの島として表象されているからだ。沖縄を表象する女主人公「ちゅらさん」は、子どものころ、この癒しの島に日本からやってきた都会の男の子と結ばれるのであるが、
(中略)
ここには日本=男性・主体・文明、
沖縄=女性・客体・自然というジェンダー化された、支配・被支配のオリエンタリズム表象を見なければならないだろう。
不思議なことには沖縄本島の大半を占める米軍基地や戦跡、浜辺に占めるリゾートホテル群は少しも描かれてはいないし、「ちゅらさん」が上京する原因たる(?)失業など沖縄の現実はみごとに消去されている。「ちゅらさん」に見いだされる、現代日本のこのまことに身勝な沖縄表象が政治的な意味をもつことは疑えない。見失われた日本だけを描くことで、つまりノスタルジックな生活と美しいだけの自然を描くことで、基地など政治的なものを一切排除し、沖縄の現実を隠蔽するメッセージだからである。
(中略)
「ちゅらさん」のように ”生きた”「南島イデオロギー」を目前にすると、この問題は本書で論じた柳田などに限らず、日本民俗学や一部の国文学・古代文学だけの問題でもなく、過去のことでもない。
残念ながら、現代目本の国民的イデオロギーと化しているからである。
(中略)2004年四月
これは、最近の奄美を舞台にした思われるドラマや、ニュースなどにも言える。
ニュースにだまされてもいけない、 『学者のうそ』 amazon にも気をつけなければならないとしたら、いったい何を・・・。
以下が本書で最もうなってしまった部分です。
P269
さて、この「起源」の語りは、「日本」の「南北」問題という語りのうちに(実際、「南島」を論じるものは絶えず「北海道」を想起している)、「東西」の関係を消去してやまない。「西(中華・西欧)に対する「東」の夷狄=日本というミゼラブルな自己意識を忘却させ、他者を消去するのが「南北」の軸なのである。この地理的条件に由来する他者消去軸の「発明」(発見)は、『南島誌』(1719)、『蝦夷誌』(1720)の江戸の啓蒙的理性、新井白石(1675-1725)にはじまるが、白石は同時に「日本人の起源」をこの列島に最初に求めた男である。
以下非常に興味深いのですが、引用ここまで。
ここで、読者は、本書の扉の次のページに引用された、ヘルマン・オームスの『徳川イデオロギー』googleのなかの次の言葉を読み返さなければならない。
歴史家が「始まり」を措定しようとする努力に無反省に熱中したり、伝統的に与えられた「始まり」に同意したりすれば、彼はその特殊な「始まり」をまず最初に語ったものと同じく、まったく未検討の前提をもった同じイデオロギーの道をたどることになる。
「北の家族」
というチェーン店の居酒屋、
どこへ行っちゃったんでしょうねえ。
寅さんは
北へ行っても
南へ行っても
そこに幻想を見出すことなく
もしくは居心地の悪ささえ感じ
旅をしても、どこにも定住できない。
癒しを求める主体という表層から
解放、もしくは追放された者だからだ。
「ちゅらさん」
には米軍基地は一切描かれていないが
「男はつらいよ ハイビスカスの花」
には、米軍の戦闘機が轟音をあげて飛ぶカットが
挿入されている。
この作品は渥美清さんの死後、
デジタルリマスター特別編として
再上映されたが
その轟音は
より強調されてリマスターされたように感じた。
山田洋次監督の、
明確な意思を感じたのです。
>癒しを求める主体という表層から
>解放、もしくは追放された者だからだ。
深いですねえ。
開放であるのか、追放であるのか、
ここは哲学的です。
一冊の本が書けそうです。
映画でもよいです。
>米軍の戦闘機が轟音をあげて飛ぶカットが
挿入されている。
たしか同じ映画だったとおもいますが、
寅さんが、「ここは暑くて人間のすむところじゃねえ」
とか言ったと思います。
東京は人間の住むところじゃねえ、とは言いやすいのですが、沖縄で言えるのは寅さんだけじゃないのか、と当時感心したものです。
それと、奄美では確か、リリーさんに奄美での療養を勧められたりりーさんの母親だったかが「あんな暑いところはいや」とか言ったシーンも非常に哲学的でした。