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ささいな日常や旅行、史跡、今少しハマっていること+プチ保守

柳本飛行場跡へ探訪☆奈良・天理市

2017-11-13 22:04:46 | 史跡/柳本飛行場跡

最近、ちょっと史跡の探求に少しハマっています。

 

 

今回は、自然が豊かな奈良県天理市まで足を運びました。山に向かって道が伸び、両側に田んぼが広がっています!とてものどかな田園風景です(#^.^#)

もうこの時期、稲刈りは無事終わっていました。(*^^*)

 

歩いて探索していると、左側の田んぼの中に小高い盛り土を発見しました。

小さな林みたいにも見えます。

田んぼのあぜ道から、もっと近づいてみます。

上には、木や草が結構茂っています。小さな古墳でしょうか?

 

近づいてみてみると、下側にコンクリートで出来たドーム状の土台みたいな物があります。

土台に沿っていくと、入口らしきものがありました。史跡みたいです!

ここはやっぱり探していた史跡、柳本飛行場跡の防空壕みたいです。

入口の両脇の壁を見る限り、壁の厚みは結構ありそうです!しっかりとした造りで、入口付近は草木がいっぱい覆い茂っています。

草木をかき分けて、中に入ってみます。

左にカーブする通路を曲がるとすぐに右側に中に入れる入口があります。

フラッシュをたいて撮影している画像なので中が見えますが、実際は中まで光が届かず、照明なども無いので中は真っ暗です!そして、もう一つ向こうにも部屋がありますが、ほんと真っ暗でよく見えません。ちょっと怖いですし・・・!

床に水が10cm位溜まっていたので、向こうの部屋には行きませんでした!

防空壕の奥側から入口付近を映した画像です。

奥にも出入り口があって、反対側の入口に繋がっているみたいです。

 

話がそれますが、これらの日本の昔の防空壕や資材倉庫は、イタリアの洞窟都市マテーラに少し似ているような気がします。

 

*baburey様参照

 

話が戻って、反対側の入口です!

どちらからでも出入りできるようになっていました。当然ですよね!いざという時の防空壕ですものね

 

当時から、上に土をかぶせて上空からわからないようにしていたみたいです。

側面から見た所です。稲刈りが終わっていたので、気にせず色んな方向から近づくことが出来ました。時期によっては、水が張ってたり苗があったりして、思うようにいかない場合もあるかもしれませんね!

ドームの上の部分に丸い筒が突き出ていますが、なんでしょうか?

煙突かな?上に上がって確かめてみました。

どうやら下の防空壕内の換気の為の空気抜きみたいです!

中は、詰まってふさがっていました。

上に登ってみた所です。盛り上がった土手みたいにしか見えないです。上空から見たら田んぼか構造物かは見分けがつかないでしょうね。

 

上から見たら、もう一つ防空壕みたいな物がありました。

最初に見たのと形が少し違います。

Y型に広がった出入り口が、こちらと向こう側にあり、出入り口が全部で4か所ありました。

中には、農家の方が道具などを入れて利用して使っていました。物でふさがっていたので中に入るのは断念しました。

構造物はコンクリート造りですが、70年間も良く持ちこたえたものです。

苔が生えて年月を感じます。

 

雨が最近降ったのか、田んぼに水がたまっている所がありました。

秋晴れの青空に柿が沢山実っていました。青空が澄んでいました。

あぜ道に目をそらすと、板の上に赤とんぼが止まっていました。

今の時期になると、赤とんぼが山の方から下りてくるんですよね。

 

 説明が後の方になりましたが、正式には『大和海軍航空隊大和基地』という名の海軍航空基地でした。通称は『柳本飛行場』。

 戦局が悪化し始めた1943年(昭18年)頃より、来るべき本土決戦に備えての航空基地として建設が開始されたそうです。

四方を山に囲まれた奈良盆地に建設された大規模な航空基地でした。

 計画では主滑走路を含めて4本の滑走路を持つ一大基地となるはずでしたが、完成を迎える前に終戦となりました。

 

http://airfield-search2.blog.so-net.ne.jp/yamato-airfield1←柳本飛行場跡の詳しいことは、空港探索さんを参考にさせて頂きました。

 今回の画像の防空壕は、上記の地図のCとDの場所にあるものです。

場所:奈良県天理市岸田町

最寄りの駅:JR柳本駅  徒歩15分位です

 

 

以前、ここには奈良県教育委員会により、案内板が建てられていました。内容は、この飛行場建設のために多くの朝鮮人が強制連行により連れてこられ働かせられたうえ、朝鮮人女性も強制的に慰安婦として働かせられたという内容の案内板があったらしいです。1995年の設置から19年間設置され、2014年に天理市により撤去されました。

市が撤去を決めたきっかけは、2月ごろから市の意見箱などに寄せられた、説明板に対する批判のメールや電話。強制連行はなかったとして、撤去などを求めるものだった。

今回探訪したときには、案内板ありませんでした。良かった 捏造された物が無くなってよかったですね。

それではこの辺で失礼します。Have a nice time!