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輪形地蔵尊 東洞院、塩小路下る一筋目東

猿寺正行院前、身の丈およそ1メートル極彩色の光背を背負った、
    きらびやかなお姿で交通守護のお地蔵さん。
      轍の跡を刻んだ当時の車道石が置いてある。
                              
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鍬形地蔵 西大路一条東 椿寺内

安産守護の霊像
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首ふり地蔵 茶わん坂を東入る清水寺西門前

よだれかけを掛けた愛嬌のある地蔵様。
    首が自在に回るので「待ち人祈願に霊験あらたか」
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歯型地蔵  歯痛治療の信仰

千本鞍馬口上る東側、*逆さ川地蔵とも言う
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幽霊の絵馬  寺町竹屋町(革堂)

天台宗、延暦寺派の行願時
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京都伝説散歩より

道祖神社 新町、松原下西側
商売繁盛の神様を祭る、道祖神とは道路の悪魔から
通行人を守る神様で《生物と死者》《人間界と幽霊界》
の境をつかさどる神様。

鵺(ぬえ)大明神  元NHK京都放送局の南側
二条児童公園内に、やじりを洗った池の祠。
鵺は夜の鳥、真夜中の鳥である,怪鳥、頭は猿,胴体はタヌキ、尾は蛇、
手足はトラ、高倉天皇の時約800年前、うしの刻(午前2時)になると、
怪しげな鳥のような叫び声、弓を取っては宮中随一の武将頼政が鵺を射止めたという。
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京都伝説散歩より

班女塚「はんによ塚」室町、高辻西北・繁昌神社内

班女とは、中国の男に捨てられた女の故事。

この塚の前を縁談事で通ると、必ず破談になると言った

言い伝えがある。逆に商売が(はんにょ)の音が

「はんじょう」に通じるせいか、商売の神様である。


首ふり地蔵  茶わん坂を東、清水寺 西門前

涎掛けをかけた愛嬌のあるお地蔵さん。

首が自在に回るので「待ち人祈願に霊験あらたか」
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清水寺4

ブログファンの皆さんご機嫌さんです。

最近忙しくて中々書き込むことができませんでしたが、いつもの通り清水について独自に培ってきた情報を少しでも皆さんに知ってもらえたら嬉しいです。

本堂の奥が内々陣、手前が内陣、外陣の三つに分かれます。柱には年代が経っているからくすんでいますが、金箔を貼り付けて荘厳にしてありました。

正面には11面千手観音、右側に毘沙門天、左側に将軍地蔵でいずれも秘仏です。もちろん秘仏の前にはお前だちが置いてあります。

ほか風雷神に28部衆が置いてあります。28部衆は三十三間堂にも置いてありますね。


清水のご本尊は11面千手観音です。この観音さんは千手のうちの一番上の手を頭の上で組み、手の上に小さい化仏を載せている。これが特長である。


本堂の周りには蔀戸を吊っている。



この蔀戸の鉄の錠のところに蝉が彫っています。

この蝉の意味は実は厄除けに使われています。と言うのは蝉は何年も土の中に暮らしていて、地上へ出てきたら僅か一週間ぐらいで亡くなる。

だから暗いところはめっぽう強いということで、蝉を取り付けることによって魔を避けると言う事である。

蔀戸を降ろすと中は真っ暗になる。その暗がりで蝉が守るということ。

ほかには八瀬方面に行く途中にあります蓮華寺にもありますね。



さて本堂をでますと釈迦堂があります。

釈迦堂の内部をよく見ると現世である。ものすごく質素に出来ています。

そして我々は質素に生きて、清く正しく生きれば次の極楽浄土に案内して貰えるんですよ、と表しているのが阿弥陀堂である。


現在清水寺は工事だらけで見たいところが見られないのでこの辺で置いておきます。


次回はみなさんのご希望がなければ思い立ったことを書いていきます。

乞うご期待くださいませ。バイバイ(⌒▽⌒)




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清水寺3

仁王門はお寺の門でしょうね。

大体仁王門の中に金剛力士像を配置しています。阿形の密遮金剛、吽形の那羅延金剛を総称して金剛力士と言っています。

では何のために置いてあるかというと、さて何でしょうかね。

それはこの寺の中にはこんな強い大きな人が居るんやから、ここから先はたちの悪いものは入れないぞ。入るなら心して入らないといけませんよ。

と言うような感じでしょうかね。

  しかし仁王さんを作る予算のないお寺もたくさんあると思います。そのような時には門に大きなワラジを置いている場合があります。

  草鞋を置いておくと、この中にはこんな大きな草鞋をはく、すごい人が居るんだなと思うでしょうね。


また仁王門の南側に西門があります。あまり意味のないように見えますが、このあたりの下の方に御所が見えるから、

おそれおおいという意味で作ったと言われる目隠し門でしょうか。




拝観料売り場のところに轟門があったが、先日清水へ久しぶりに行った時ころっと様相が変わっていました。

そうです。解体工事のようでした。轟門ではなくおどろきでした。

とにかく工事中の為見られなかったところがありました。

例へば轟門の前にあったお手を清める場所、龍水。仏足石のようなもの。川がないのにある橋等今現在無かったので少し省きます。



では一気に本堂の方へ行きましょうか。

本堂に入る前に出世大黒さんがおられます。

まさに正面から見れば大黒さんです。しかし後ろから見れば男性の一物である。これが密教の世界で有るんですよ。

今度清水へ行かれたら一度裏側から見てくださいませ。


出世大黒さんの手前の本堂の壁に横柱が通っています。その柱には凹んだ跡のような溝が入っています。

これはここは目の悪い方がお百度参りをされます。お百度参りされる方は100本の竹のへらを持っています。

目が見えないから頼りになるのはこの柱で、へらを当ててそしてまわる。そういった名残でぐるりを巻いています。

ここでお祈りして治った人が寄贈したのが、この鉄の錫杖と下駄でしょうね。


さあ舞台に出てきましたね。

飛び降りたつもりで、、、、、、というお話が昔からありましたが、この舞台で本当に飛び降りされた方がありましたでしょうか。

いやあ!驚きました。実はあったんですよ。

 京都における観音信仰の中心は清水でした。

今はほとんど観光される方が清水を訪れます。昔は信仰の人だけが集まってきました。

その信仰が崩れたらどうなるか。この高い舞台から飛び降りたらどうなるか、今までの信仰の力で助けてもらえるのか、

それとも死ぬのか確かめたい。勇気のある人は飛び降りた。

しかし当時は下は土で、木もたくさんあり木のクッションで助かった。

だが運の悪い人もありました。ここまで死まで賭けてどうなのか、助かればそれだけ信仰がある。

助からなければその時点で南方にある、補陀落浄土へ行けるという気持ちがあったんでしょうか。

大体南の方向は弥勒浄土の世界が一般的ですが、観音の浄土の世界(補陀洛)も南方と言われています。

本堂の中は次回です。1週間後か2週間後で掲載します。

       乞うご期待ください。
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京都市文化財指定栗原邸

5月24日日曜日京都市文化財指定の栗原邸へいってきました。

栗原さんは小栗栖にて開業医をしておられます(ちなみに今住まわれてるところは違うところです)。

小生は栗原先生に毎月一回見てもらっています。その関係で山科御陵の栗原邸へ拝観に行きました。


地下鉄御陵駅で降りまして2番出口から出て、左へ行くとすぐ左へ行く道があります。

左へ行って突き当たり右側に栗原邸があります。
      
                 栗原邸を横から見たところ  



今日は栗原先生がおられて一応挨拶しました。

14時から約一時間説明(栗原邸保存研究会)が入り非常に良かった。
      
     
                   栗原邸の玄関

まだ見ておられない方は

5月30、31日が最後ですからぜひ見に行って下さいませ。

栗原邸は1929年に京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)教授で建築家の本野精吾の設計により、

同校校長で染色家の鶴巻鶴一の邸宅として竣工したものです。

当時の特殊なコンクリートブロックで建てられた、合理性を追及したモダニズム建築です。

一度来週の土、日、に行かれたら如何でしょうか。
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清水寺2

仁王門の前まで来られると少し左を見ていただくと現在では駐車場、

昔は足として馬を使われていたので馬駐(重要文化財 ウマトドメ)があります。

この馬駐の中の金具が皆たてなのにひとつだけ横になっている。

これは多分まだ未完成である。いやわざと未完成にしてあると思う。

未完成ということは完成しているわけではないので、こわれない、つぶれない、破壊しない、ただただ成長するという意味が込められていると思います。

ほかの寺院でもよく見られる部分があります。


仁王門の前に狛犬があります。

普通お寺の中には狛犬は見られない。要するに神社のものである。

 
昔は神仏混合であった。それが明治になって神仏分離令がでた。寺は寺、神は神と分ける。

日本はもともと神の国やから原点に戻ろうと言う事でしょうね。

不必要な仏像や、仏壇なんか要らないから燃やしてしまえと言うように、


神仏分離令と共に廃仏毀釈という条令が作られた。

これでもってお寺は抑圧されていく。

すたれていったり、つぶれたりする中で売り買いが始まる。食べて行く為には宝物が需要文化財が流出していく。

仕方のないことであるが、この現象を懸念したのが岡倉天心である。

この流出を防ぐ為に岡倉天心は、資金がないために哲学者フエノロサにお願いする。

フェノロサは当時東京大学の講師として招かれていました。

しかしながらこのような重要文化財の高額なものを買い取る資金がないため、どうしたかと言うと、

アメリカのボストン美術館に頼んだ。

美術館ではこちらから資金を出すからみんなで買えば良いというので、ピゴラ博士が資金を持ってきて、

フェノロサと岡倉天心の三人で重要なものを買いあさった。

それがボストンでは70000点、メトロポリタンでは30000点ほどあるらしい。

しかしながらこれらを日本から持ち出すにあたって、朝廷と文部省に買った値段と同じ額で売るから買って欲しいと通達を出しています。

持ち出すものが日本人の血と汗の結晶であって、このようなものを持ち出すのはしのび難い。

しかしながら政府の返事は買わないというつれない返事だったらしい。

日本においてはその後大東亜戦争等でほとんど焼けました。外へ持ち出されたほうが良かったかもわからないね。

(京都、滋賀、奈良は残っています)

ボストンではちゃんと管理されており逆輸入のような形で、日本で展示されることがあります。


話が清水寺から大分それましたが、狛犬の「あ」は右側で「ん」は左です。

しかし清水寺はどちらも「あ」ですね。

これは一日を楽しく暮らしましょう。の意味で、一日を泣いて暮らすも、笑って暮らすも一緒じゃないか。

だったら笑って暮らそうと物事をいい方向に取って暮らそうと言う意味である。

この坂を男坂、向こう側が女坂である。

男坂を登ると仁王門があります。

仁王門は次回にします。乞うご期待。


     後清水3へ続きます。2週間後です。

  ところどころ思い出しながら書いていますのでこのブロクに関し意見があればお待ちしています。いわちゃんより。
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清水寺No.1

大変お待たせしました。

皆さんからの要望がなかったので、予定どうり清水寺の事を独断と偏見で書いていきます。

清水寺は西国16番札所で全国からたくさんの方がお参りに来られます。

筆者も朱印を受けるために何回か参拝しております。


さて前置きはこれぐらいにして話を進めてまいりましょう。

まず清水寺は音羽山北観音寺といいます。境内から清い水が湧いたところから通称清水寺と言われたんですよ。


このお寺は平安京以前にさかのぼります。平安京が成立する前に延鎭(えんちん)によってここに一つのお堂が作られる。

それを応援したのが坂上田村麻呂である。

そしていろいろな伽藍が出来て行きましたが、応仁の乱でことごとく焼かれ現存しているものは室町時代末期のものである。

その後江戸時代に舞台が作られた。



さて清水に入っていく前に大変な坂を上っていかなければなりません。

坂を上がるうえに向こうの方にお寺が見えると、

あそこまで登って行かんなあかんのかとため息が出て、いっぺんに疲れが出てしまいます。

そこで参道が曲がっていると先が見えないからゆっくり進めます。気分的なものでございますね。





今ではお店もたくさんあるから知らん間に到着できます。


そんな時ふっと屋根の上を見ると小さな仏が乗っています。

これは狭い通路をはさんで向き合っている家どうしのあいだで、玄関を開けると顔を合わします。

そんな時お互いにご挨拶をします。

そのようにお互いにむつかしくならないように、いつまでもご機嫌に暮らせるようにと願う佛さんです。

この佛さんのことを私は昔から人づてに頭に残っているのが{ひょうきんさん}と耳に残っているんです。




このようにいろいろ考えながらゆっくり見ながら進めばすぐ赤門(仁王門)が見えてきます。


赤門の手前左側に首振り地蔵があります。

その昔祇園に鳥羽八という太鼓持ち(ピエロのような立場の方)が居りました。

舞妓が踊る前とか場を持つあいだに太鼓持ちが接待するそうな。

その太鼓持ちの鳥羽八がこの石仏を作り、お客さんがたくさん来てくれる方向に向けて置いていたのを、

鳥羽八が亡くなってから屋敷にあったものを、ここに置かれるようになったらしい。

では何故この鳥羽八という石仏を作ったのか?   それは多分

江戸方面からたくさんの人が来てくれるので、いちいち頭を下げるより東に向けて置いておけば挨拶替わりになると考えたのでしょうか?

頭はちょんまげスタイル、手には扇子を持っています。面白いですね。どなたさんかが前掛けを作ってくれましたね。

この石仏は二代目で初代は奥に居はります



この首振り地蔵の後ろのお寺は善光寺です。


善光寺と言へば今年長野の善光寺さんは御開帳の年です。




私ごとではありますが5月2日に行ってまいりました。2日の午前1時頃につきました。

ホテルに泊まるわけには行かず、門前の駐車場に入り車の中で仮眠しました。

5時半頃から御開帳ということで安心して5時過ぎに門の中に入っていくと、何と言うことでしょうか。

すでにたくさんの方でびっくりしました。せっかく早く行ったのになんにもならなかった。

後悔しても後の祭りだす。みなさん行かれる時の参考にしてください。


まあとにかく善光寺型阿弥陀三尊はしっかり拝見してまいりました。



清水寺の続きは2週間後とします。乞うお楽しみに。


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京都大丸前


                        大丸前


先日ふらっと四条通りを歩きました。昼ごろでしたが車はスムーズに動いていました。

しかしバスが停車している間は、乗用車が追い抜けないために、

バスが動くまでじっと我慢の子でした。

これは工事が入る前からの予想出来た事で

仕方がないかと筆者は思う

しかし人と公共交通を優先するなら

タクシーも公共的な乗り物ですから優先すればと思うが皆さんどう思われますか?
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お茶の歴史(後編)

茶臼と聞いて皆さん何を感じましたでしょうか。


はいそうです。茶臼とは男女交わる時に女性が男性の上になることを意味します。

ここで面白い言葉があります

     ”天どうじて地は動ぜず、天地の間常に妙的春を生むのみ”
                            (老子の道経?)

  どう言う意味かというと
      男は疲れていたらじっとしていたら良いんだよ  上が動くからそれでもってその間は常に春を呼ぶ


ところで茶臼の大きさは35cm以内の大きさでないとダメなんですよ。

しかも1時間かけて40gしか挽けないんです。(だから抹茶は高価である)

中国では唐の時代に茶臼が使われていました。日本では鎌倉末期から室町である。

高知の吸江寺に夢想国師が使っていたという茶臼があったと聞いています。南北朝時代でしょうかね。


その茶臼が京都に出ていたと言われています。


臼は上臼と下臼を合わして挽きますが、合わすことをテンガイ(碾磑)というらしい。

     碾磑は石臼のことである

東大寺の転害門はお分かりだと思いますが、転害門はもともと碾磑門といいまして近くに大きな石臼が最近までありました。




茶を使った言葉で

    茶かすとはーーー人を馬鹿にする言葉

    茶をにごすとはーーーその場をつくろうこと

    茶をひくということはーーー暇になったということ
                               
                                     おわり

  

 お待たせしました次回は清水寺へ参ります。お楽しみに。            
        







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お茶の歴史(中編)

桜の季節もだんだん終わりになってきました今日このごろです。

お茶の世界は闘茶から殿中のお茶(書院茶)に変わっていきます。

では殿中のお茶とはどういう事かと言うと


侘び茶の場合は、ひとつのお部屋で点てるのが侘び茶である。

とこらが殿中の場合はお客の前で点てないで、隣の部屋で点てて点てだしで出してくる。

書院茶はあくまで点てだしである。茶たて処ろで点てて、お広間へもってくる。



室町中期になって村田珠光が足利義政に取り入り又一休や能阿弥らとも付き合いし能・連歌・禅の精神的な要素を深く取り入れわび茶を追求していった。



湯を注いで飲むのを煎茶

粉にして湯を混ぜて飲むのを抹茶(世界一古いインスタントと言うべきでしょうかね?)
  

ところで茶臼と石臼とはどう違うでしょうか。


日本の文化で欠かせなかったのが粉である。粉にして団子とかうどんにして食べた。

話は変わりますが奈良東大寺に行きますと、少し離れたところに天平時代から残っている転害門があります。

テガイとは石臼のことである。最近まで門の中に大きな石臼がありました。



石臼ではお茶を挽くことができない。石臼は花崗岩を使っていて、茶臼は最も良質な玄武岩を使っています。

硬い石で黄緑の色に輝いたものすごく綺麗な、抹茶の色をもっともっと深く沈めた色をしている。

このような石は宇治の炭山から天ヶ瀬にかけて出る。

従って石臼で茶を挽いた場合荒挽きしか出来ない。

抹茶にする茶の葉は碾茶(てんちゃ)という。碾茶を茶臼に入れて挽くと抹茶になる。茶臼ができる以前の中国では何で挽いていたのでしょうか。

石臼では石が弱いから無理で、石は硬いものでなければならない。


茶臼ができるまでは碾(碾茶の碾です)で挽いていました。
     


ここで皆さん茶臼と聞いて何を感じますかな?


ここから次回にします










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