不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

Ci vuole...

2004-10-21 18:19:50 | 日記・エッセイ・コラム
撮影も終盤。
美術品大好きな私としては
連日ほぼ貸しきり状態で
有名な美術品を間近に
しかも撮影用の明るい照明付で見られるだけで
このうえなく嬉しくて
疲れも感じないほどですが
撮影隊の皆さんには疲れもみえはじめ。

たまにはオープンカフェで
ゆっくりと休憩も必要です。

フィレンツェに暮らしているものにしてみれば
街中のオープンカフェなんて
高くてそうそう座ってゆっくりできないもの。
お茶なら家か友人のところで飲むか
立ち飲みで済ませてしまうわけです。

それでも私にも
個人的に気に入っているオープンカフェというのもあって
自腹で行くなら
そういう行き慣れたところにばっかり行くわけです。

しかし、今回は違うところにも行ってみました。
シニョーリア広場に面した「Perseo」。
ここはその昔、
ドイツ人観光客のおばさまが
とんでもない大きなジェラートを売りつけられ
泣く泣く20000リラ払っているのを見かけてから
大嫌いになったカフェでもあります。
基本的に騙される(ぼったくられる)観光客も
いかんと思うのですけど
まぁ、あまり良心的なお店という感じはしない。
その当時とはきっと色々変わったのだろうとは思うけれど、
私の中ではそういう
いやなイメージの付きまとうお店のひとつ。

immagine18.jpg
オープンカフェでジェラートの盛り合わせを頼むと12ユーロ。
まぁまぁ良心的なのだろうなぁという気がします。
私の中の悪いイメージを払拭とまではいかないけれど
今までみたいに避けることはないかもしれないです。(笑)


Il palazzo vecchio

2004-10-21 17:16:57 | 日記・エッセイ・コラム
ここも全面的に正面ファサード修復中。
いつになったら終わるのやら…。

ヴェッキオ宮殿は由緒正しいフィレンツェの行政機関。
現在もフィレンツェ市役所としての機能を果たしています。
フィレンツェ市の居住許可を取るのには
ここに出向かなくてはいけません。
(滞在許可証は警察へ)

2001年の9・11テロ事件の後
イタリア国内でもあちこちで警備が厳しくなりました。
例に漏れず、
このフィレンツェ市役所も厳戒体制(?)の警備。

撮影日は一般観光客の出入りしない
木曜日の午後に設定されていて
入り口では冷たく「美術館は休み!」と言い放たれた。
予期していたことで、そんなことにはびびらない。

私   「撮影の約束があるので。」
警備員「そんなこと聞いていない。」
私   「撮影許可を持ってきています。」
とりあえず許可証を見てみる警備員。
警備員「フン。入っていいけど、
     荷物は全部エックス線チェック。」
私   「高感度のフィルムがあるので
     機材はエックス線に通しますが、
     フィルムは通しません。」
警備員「だめだめ。全部通さないなら入るな。」


もうここで私はムカッときています。
まず、その横柄な態度が腹立たしい。
もう少し粘る。

私   「機材は通してもまったく問題ないし、
     フィルムも一本づつ
     ハンドチェックしてくれてかまわないから。」
警備員「そこの機械にフィルム・セーフって書いてあるだろう。
     空港で使っているやつと同じ機械だ。
     だからフィルムもそこでチェックする。」
私   「空港と同じ機械なら
     空港と同じ対応してもらわないと困ります。」
警備員「空港通ってきたんだろ。」
私   「成田でもパリでもハンドチェックで通ってきているの。
     だからここでも通すわけにはいかないの。」
警備員「何が問題なんだよ。」

開き直りの警備員。
警備員の目の前で担当者に電話をして訴える。
「一階で揉めて入れてもらえないので
約束の時間に遅れています。」
担当者が直接降りてきて話してくれることに。

引き続き担当者も私も同じことを繰り返して訴える。
「撮影用の高感度フィルムだから」

警備員の次の言葉に
私は開いた口が塞がらなくなった。
「毎日何千何万という観光客は
そのエックス線を通したフィルムで撮影して
問題なんかないんだから」
おばかさん…。
プロの使うフィルムと観光客のフィルムを
同等と思っている時点で
もうお話になりません。

お願いだから上司を呼んできてくれと頼む。
君では話にならないのだ…。

結局20分ほど大揉めして
警備員の上司(つまり警察官なんですけど)も登場。
最終的には
フィルムのチェックは一切なしで入場しましたけどね。

まぁ警備員としての仕事を全うした彼は偉いけれど、
もう少し社会常識も学んでおいてください。
この人たちに警備を任せていて
大丈夫ですか、フィレンツェ市長。

immagine16.jpg
500人広間。

immagine15.jpg
「ゆりの間」の
ドナテッロ(Donatello)作
「ユディットとホロフェルネス」

撮影終了してエレベーターから降りたとき
現フィレンツェ市長にばったり。
でかいボディーガードを連れていました。


Annunciazione

2004-10-21 09:08:32 | 日記・エッセイ・コラム
L'ospedale degli innocenti。
フィレンツェ共和国時代に
「絹織物組合」の出資で建てられたもの。
設計・建築はフィリッポ・ブルネッレスキ
(Filippo Brunelleschi)が担当している。

1400年代のフィレンツェには
育てられなくなって捨てられる子供が
後を絶たなかった。
そうした子供たちを受け入れる施設として
ヨーロッパでも初の捨て子受け入れ施設として
1419年に誕生したのが
この「L'Ospedale degli Innocenti」。
行き場をなくした子供たちを介護し育て、教育して、
やがて社会に出られるように
手に職をつけさせるというのが目的。

建物の前につけられたアーケード。
この左端に小さな穴が開けられている。
今は鉄格子がはめられているけれど、
両脇を二人の天使に守られたこの穴は
「RUOTA」と呼ばれていた回転台。
台の上に子供を置いて、
くるりと回すと
台ごと回転して一瞬にして子供は壁の向こう側に。
こうすることで
やむを得ず子供を置き去りにしていく
親の顔を知られずにすんだ。
それでも親はいつか金銭的余裕ができて
子供を再び引き取れる日が来ることを祈り
そのときに識別可能なように、
何かしらひとつ小さなオブジェを添えていたという。
この回転台、1875年まで機能していたというから驚き。

建物内部の回廊には
Andrea della Robbiaの彩色テラコッタ「Annunciazione」。
immagine9.jpg
やさしい雰囲気をかもし出すこの作品は
この施設の本来の機能をよく表していていい感じ。

Innocenti(インノチェンティ)という苗字は
今の時代のイタリアにも数多く残っていますが、
その起源はこの施設にあり。
この養育院出身者を
遠い昔の祖先に持つという意味でもあります。

しかし、「L'Ospedale degli Innocenti」
これを初めて日本語に訳した人は
どうしてこのような訳にしたのだろう。
「捨て子養育院」。
こう呼ぶたびに
すごく寂しい気持ちになるのだけれど。
せめて「孤児院」でよかったのではないかしら。
実際どこにも「捨て子」という
イタリア語は含まれていないのだし。
個人的には「ポニーの家」と呼びたいけれどね。