1500年代に水の動きに異様なほどの興味を持っていた
レオナルド・ダ・ヴィンチは
その当時、既にアルノ川の増水を想定して、
迂回水路のデッサンを書き残しています。
アルノ川は昔から有効な交通機関であり、
生活の源であると同時に
周辺に暮らす人々にとっては脅威でもあったのです。
1966年11月。フィレンツェ周辺に降り続いた豪雨。
11月3日の土曜日、
トスカーナ一帯は2日間ノンストップの雨になり
48時間で50mmの降水量を記録し
アルノ川は年間降水量以上の水量を
わずか24時間で受け止めることになりました。
その結果11月4日早朝に
アルノ川は増水して持ちこたえられずに氾濫。
まず決壊したのはミケランジェロ広場下の
Piazza Poggi辺り。
最も被害が大きかったのは
Santa Croce地区とSan Frediano地区。
ちょうど第一次世界大戦の勝利記念で休暇にあたっていたため、
フィレンツェを離れて休暇を過ごしている人も多く
死者36名、数千人が一時的に家を放棄する程度で
けが人や死者などの被害は比較的抑えられたものの、
この洪水がフィレンツェにもたらした「芸術品」への被害は大きく
世界中から支援者が集まって
泥と水に埋もれた絵画や彫刻、書籍の救出にあたりました。
休日に当たっていたため、
多くの美術館はきちんと扉が閉じられており
いったん入り込んだ泥水が
建物の外に流れ出るのを妨げる結果となり、
また係員も駐在していなかったことが
フィレンツェの誇る芸術品への被害を大きくした
とも言われていますが
幸いにもフィレンツェ一の美術館であるウフィツィ美術館は
主要展示物はすべて3階にあり、
被害を最小限に食い止めることができました。
しかし、展示スペースがないため
陽の目を見ない作品や修復を待っている作品が
ストックされている保管ルームは1階にあり、
ここの被害はかなりのものでした。
1000点を超える中世およびルネッサンスの
絵画、彫刻、フレスコ画が被害に。
その他には当時洗礼堂に置かれていた
ドナテッロの木造彫刻「マリア・マッダレーナ」や
同じく洗礼堂の天国の扉の下部5枚の
ギベルティのパネルが剥落するなどの被害もありました。
サンタクローチェ教会所蔵のチマブエの「キリスト磔刑像」が
ほぼ完全に泥に包まれ
目も当てられない状況であったのは世界的にも知られており
この1966年11月4日の悲劇のシンボルとなっています。
フィレンツェとその市民は
11月のこの悲劇に打ちのめされることなく、
二ヵ月後のエピファニア(1967年1月6日)には
悪い子には炭を、良い子にはお菓子をという慣わしに従って、
前年最も「悪い子」であったアルノ川に炭を贈るべく
奇跡的に無傷で残ったポンテ・ヴェッキオに
炭をいっぱい詰め込んだ靴下を吊り下げて、
この悲劇を独特のユーモアで乗り切っています。
世界各地からの支援もあり、
500000トンの泥で覆われたフィレンツェは
この40年前の洪水の悲劇から奇跡的な早さで立ち直り
1967年には既にメインの美術館は開館し
ホテルやショップも営業を再開しています。
現在でも街のいたるところに
この1966年11月4日の洪水の記録として
水位を表すプレートがつけられています。
サンタクローチェ界隈は
フィレンツェの中でも低地にあたるため特に被害が大きく、
現存する建物の壁のかなり高い位置に
記録のプレートが取り付けられていて驚くこともよくあります。
フィレンツェの11月は雨季に当たり、
一年の中でも非常に雨量が多くなります。
アルノ川が氾濫したのは1966年だけではなく
観測記録がつけられ始めた1177年11月4日から現在まで
少なくとも56回の氾濫記録が残されています。
シニョーリア広場裏手からサンタクローチェ教会方面に伸びる
ネーリ通り(Via dei Neri)と
サン・レミージオ通り(Via di San Remigio)の角には
洪水の水位を示す二つのプレートが残っています。
ひとつは1966年の洪水の痕を示すもので、
実に4メートル92センチを記し、
もうひとつはそれよりも30センチほど低いところに取り付けられた
1333年の洪水の痕で、水位を示す指先表示がついています。
興味深いのは洪水の記録がいずれも11月4日であること。
11月4日は洪水の当たり日??
今現在同じような豪雨に見舞われた場合、
フィレンツェの被害は40年前のそれとは比べ物にならないくらい
大きくなるといわれています。
毎年なんとなく11月4日が近づくとそわそわするフィレンツェ。
今年はいい天気になりそうですよ。