摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

宗形神社(鳥取県米子市宗像)~伯耆の当社や楽々福神社などのご祭神はこの地にいたか~

2020年04月29日 | 出雲

 

秋には紅葉の穴場スポットともなるらしい、素晴らしい神社でした。エントランスの階段の横幅が堂々として、国道の大通り沿いにもかかわらず一歩境内に入ると本当に静かで重厚なたたずまいに癒されました。

 

【近隣の発掘遺跡】

考古学上の発掘成果によると、伯耆・因幡には、古墳時代中期ごろまでは吉備勢力の影響が強く、その後は北九州勢力の進出がうかがわれます。現社地背後の丘陵には宗像古墳群(42基)、国道180号線をはさむ東側丘陵に東宗像古墳群(22基)、そして南100mの日原山の日原古墳群(8基)があるという古墳に囲まれた地に鎮座しています。その内の宗像一号墳では、円頭柄頭付直刀、耳飾り、帯金具など遺物が多数確認され、後円部に二基の横穴式石室を持つ、6世紀中頃の北九州系の古墳と考えられています。

 

・石標と一の鳥居

 

【ご祭神、ご由緒】

ご祭神は、田心姫、湍津姫、市杵島姫の宗形三女神です。「延喜式」神名帳にもその名があり、会見郡の小社となっています。「明治神社誌料」には、”旧記を按ずるに、往時当地方一帯の入海なりし頃、宗形神船に乗り給いて此の地に御著ありて、やがて鎮座せられたり、其御船を留め給いし処を御船塚と称し、今尚其の名を存す”とあり、米子市長砂町小林がその上陸地と云われています。上陸ののち、宗形神は200m程南の宮ノ谷の山頂に鎮座しましたが、1556年、尼子晴久によってさらに300m南の現社地に奉遷されたようです。

 

・拝殿

 

なので、当社が古墳の祭祀を目的に創建されてはないでしょうが、のちに伯耆における数少ない式内社の一つである当社を祭祀したのが、これら古墳を築造した豪族であった事は容易に想像でき、宗形神を奉斎する北九州渡来の海人族宗形(宗像)氏によって、6世紀ごろに創立されたと考えるのが妥当、と谷川健一氏編「日本の神々 山陰」で坂田友宏氏が述べておられます。

 

・本殿

 

【伯耆の海人信仰】

また、近くには北九州渡来の海人族に由来するとおぼしき神社と地名が現存します。その一つは、大正6年に当社に合祀された住吉神社。合祀以前には日原山の西麓に鎮座していたようです。さらに当社の南約3キロの所の「安曇」の地名。伯耆国会見郡の郷名として「和名抄」に記載され、「正倉院文書」にも見えています。こちらも北九州に本拠を持つ安曇連にかかわる土地と考えられていますが、ワダツミ三神を祀る神社は見られません。信仰の分布を見ると、三者では宗形信仰が特に西伯耆で優勢です。なお、三者とも因幡には極端に少なく、伯耆に集中している事も特筆すべきです。

 

さらに、こうした伯耆における海人系神社の中で注目されるのは、これら海人系祭神と八幡系の神が並祀されている例が少なからず見受けられ、明治・大正の合祀以前の状態を見ると、伯耆西部にそのような合祀祭神が集中する事が注目されるようです。

 

・”とっとりの名木100選の木”

 

【伯耆の楽々福神社】

宗形神社から見下ろせる日野川水系に、沢山の楽々福(ささふく)神社とそれらのご祭神、孝霊天皇による鬼退治伝説が語られています。日野川の東には孝霊山もそびえ立ちます。その伝説のバリエーションは多岐に渡り、中には主人公を大吉備津彦と若建吉備津彦にしているものもあるとか。これは弥生時代中期中頃まで遡る発掘成果と共に、吉備との関係を物語ると考えられます。祭神の孝霊天やその后、皇子女は記紀によって整備されていることが伺われ、本来は福姫(砂鉄を吹く姫)が祭神であろうことや、個々楽々福社の祭神が異なることなど精査すると、孝霊天皇は形式的な祭神にすぎない、と先の坂田氏は推定されていました。

(参考文献:谷川健一氏編「日本の神々 山陰」)

 

 

【伝承】

「新撰姓氏録」には、”宗形君は大国主命六世孫吾田片隅命の子孫”だと書かれ、出雲の神の分家だとしています。東出雲王国伝によると、確かにそうですが、西出雲王国の大国主命の処を”出雲王国の主王・大穴持”と読み替えるのが正しいそうです。大穴持は役職名です。また、「先代旧事本紀」や「海部氏勘注系図」では、北九州を拠点とした吾田片隅命の娘・宗形三女神の湍津と田心姫が西出雲王家の大国主命に嫁がれた、となっています。これも、湍津姫はその通りですが、田心姫は実際には東出雲王に嫁がれたといいます。紀元前3世紀頃と思われます。

 

 

田心姫は、現在の松江市東出雲町の阿太加夜神社の辺りに住まれていましたが、大国主命の亡き後、湍津姫が姉を頼ってその地に移り住みました。そしてその後、田心姫が移り住んだのが今の宗形神社の地だと「出雲と大和のあけぼの」に書かれています。一方、「出雲王国と大和王権」では、湍津姫は最初出雲市に住んでいたけれども、その後伯耆のこの米子市宗像に一時住んでいて、さらに東出雲町に移った事までを述べています。つまり、この宗形神社の地は、湍津姫と田心姫が入れ替わりに住んだという事でしょうか?補足説明が欲しいですが、とにかく、宗像氏とこのの関りは、紀元前にさかのぼり、女神が直々に住まわれとの伝があるようです。

 

八幡神信仰が多い事は、武内宿祢が晩年、現在の松江市八幡町に隠れ住んでいたという、東出雲伝承と関係あるのかもしれません。そこには今はその御方をご祭神とする内神が鎮座しています。また、楽々福神社のササフク信仰にいて伝承は、”倭国大乱”の時期ここに孝霊天皇や大吉備津彦、若建吉備津彦が実際に来て、”鬼王国”をかなり追い詰めた、と云います。そして、その事が「古事記」でたとえ話にして載ったらしいです

 


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