摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ:大和郡山市矢田町)~櫛玉饒速日命と出雲の関係を偲ばせる古社

2022年04月10日 | 奈良・大和

 

富雄川を離れて矢田丘陵の東麓のなだらかな坂道を上がった所に鎮座しています。さらに西方1キロのところに、アジサイの寺として有名な矢田山金剛寺(矢田寺)もあります。そして、矢田丘陵の西にあるのが生駒山です。一の鳥居の前だけでなく、境内東隣にある駐車場前から西に隣接する住居までの間に渡し掛けられた綱がまず目に飛び込んできて圧巻でした。

 

・境内の前面全体に掛けられた綱

 

【ご祭神・ご由緒】

大和郡山市のホームページによると、現在のご祭神は櫛玉饒速日神とその妻で長髄彦の妹、御炊屋姫神(登美屋姫)です。一方、「日本の神々 大和」で比嘉紀美枝氏は、当時(80年代)は久志玉比古神、女神、誉田別命だった事を紹介しつつ、「延喜式」神名帳では二座になっているので、龍田比古龍田比女神社のように男女一対の神を祀ったもので、豊穣を祈る農耕神とみられる、という考え方を書かれています。

 

・鳥居脇の灯篭に刻まれた「矢落社」の文字

 

また当社は、「矢落神社」、「矢落明神」とも称します。「先代旧事本紀」にのる天磐船伝承によれば、饒速日命が天磐船に乗って降臨した際、三本の矢を射て落ちたところを住居と定めました。最初に降り立ったのが大和国の鳥見の白庭山であり、当社の地がその白庭山に比定されているのです。二の矢の落ちたところも境内の二之矢塚と呼ばれる小塚です。三本の矢の落ちた地点を連ねた先に田原本町があり、更にその先に三輪山があると当社の方が説明をされていたと、「出雲と大和」で村井康彦氏が書かれています。村井氏は邪馬台国大和説で、田原本町の唐古・鍵遺跡の地を邪馬台国の王都として有力視する考えをお持ちです。

空を飛んだという天岩船にちなんで、現在は飛行の神としても崇められています。特に、満州事変で使われた陸軍九十一式戦闘機Ⅰ型から外され、昭和18年に大日本飛行協会大阪支部から奉納されたプロペラがとにかく目を引きます。

 

・楼門と掲げられたプロペラ。「航空祖神」の額は航空自衛隊初代幕僚長の源田実氏奉納

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

「新抄格勅符抄」の806年の牒に「矢田神二戸大和」とあり、859年には従五位上の神階を授けられています。「延喜式」神名帳では、添下郡十座の筆頭社として大社に列せられ、月次、新嘗の幣帛にあずかるなど、古来、矢田地方の名社でした。創祀については明らかではありませんが、「新撰姓氏録」大和国神別に゛矢田部。饒速日命七世孫大新河命之後世゛とみえ、「旧事本紀」にある゛天照国照彦天火明櫛玉饒速日命゛の「櫛玉」が当社名に関連する事から、上記したような饒速日命関連の伝承が残っていると考えられます。

「古事記」によれば、゛八田部(矢田部)゛は、仁徳天皇の后八田若郎女に御子がいなかった為の名代部で、その伴造氏族は矢田部造と称しました。「日本書紀」崇神天皇条に゛矢田部造遠祖武諸隅゛とあり、この武諸隅は「先代旧事本紀」天孫本紀に饒速日尊の八世孫物部武諸隈連公とあり、その孫大別連公が仁徳朝に氏造となり、八田部連公の姓を賜ったと書かれています。

 

・境内

 

【中世以降歴史】

1724年の矢田村諸色明細帳(社蔵)に゛大宮矢落大明神境内゛として゛東西六十七間、南北五十六間゛との広大な規模が記録されており、同年の金剛山寺明細帳覚(矢田寺蔵)によると、矢田村の惣鎮守で、金剛山寺と東明寺二寺の4名の僧が神役を務めていました。明治43年に村社八幡神社を合祀、昭和13年には県社になっています。

 

・拝殿

・拝殿内には「矢落大明神」の額。そして奥に本殿が並びます

 

【社殿、境内】

本殿は一間社春日造、檜皮葺で、室町中期を下らないものとされ、国重要文化財です。蟇股、木鼻の彫刻や、彫刻、脇格子にはめられた吹寄格子など細部の手法が優秀だと、大和郡山市は説明しています。本殿の西側に並立する八幡神社社殿も同じく一間社春日造、檜皮葺で、こちらは鎌倉末期の建築、同じく国重要文化財に指定されています。

 

・本殿。確かに古そうです。拝殿の左右に柵が張られてたので近づきませんでした

・並立する八幡神社社殿

 

【祭祀・神事】

当社で1月8日の行われる綱掛祭があります。雄龍、雌龍に見立てた二本の太い綱を神域の前面に掛けるというもので、先の村井氏は、明日香村などにみられる勧請縄と同様、魔除けの習慣だろうと考えられます。そして、掛ける前に巻き上げられた形で置かれるのは、田原本町の杵築神社、御所市の野口神社などにみられる蛇巻きに似ていて、出雲の荒神信仰を想起されていました。村井氏は饒速日命を出雲系の神と考えておられ、出雲や三輪山の蛇神信仰との繋がりに注目しています。なお、登彌神社(奈良市)で有名な粥占いが、同日にコチラの神社でも斎行されており、結果が掲示されていました。

 

・二之矢塚。楼門を入ってすぐにあります

 

【伝承】

「先代旧事本紀」や「海部氏勘注系図」に載る、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命という長い神名から、天火明命と饒速日命が同じ人である事を現すと理解される事が多いと思っています。この神が出雲系だとする村井氏のお考えは一般的な理解に対して個性的なように見えますが、東出雲王国伝承は、確かに天火明命は出雲にいた事があると説明します。しかし、大和までは来なかったらしく、大和に来たのは後の子孫の世代だと主張しています。その九州東征は二回あったらしく、その伝承を前提とすると、゛矢を落とした゛のは後の方の東征軍がこのあたりに来た事に関係するように思えます。

村井氏の指摘されている、当社の祭祀で掛けられる蛇巻き状の綱は、確かに出雲系の信仰のように感じられ、東出雲王家富氏からの分家登美氏が弥生時代からこの地にいた名残(登彌神社はすぐそばです)のような気がします。今も松江市の阿太加夜(アダカヤ)神社では、木に巻き付けた藁で作った龍を祀っています。それが饒速日命がご祭神の神社で祀られているのは、攻められた側(登美氏)と攻めた側(九州東征勢力)の信仰が長い年月の間に習合した結果なのでしょうか。

大元出版本の一つ「事代主の伊豆建国」で谷日佐彦氏が、忌部氏の先祖を奇玉彦(くしたまひこ)命と書いています。出雲伝承は当社についての説明はなかったと思いますが、忌部(斎部)氏は出雲王家の分家と主張してますので、ご祭神を忌部氏関係とみると、祭祀の蛇巻き綱も理解しやすくなります。ただ、永年「旧事本紀」と結びつけて「矢落社」とも称されてきたことにも理由があると思いますので、今後の課題にしたいです。

「古事記」で八田若郎女に御子がおられない話になっていますが、「仁徳と若タケル大君」で富士林雅樹氏は事実ではないと主張されています。そして、物部氏にゆかりの応神大君の姫君だ、と書かれています。とすると、そもそも矢田部と八田若郎女は物部氏系としてつながっていたという事でしょうか。富士林氏によると、佐紀古墳群など奈良市の古墳は物部氏と関係する大君の古墳が多く、八田若郎女のお墓も佐紀古墳群にあると上記の本で特定しています。

 

・境内から矢田丘陵を望む

 

(参考文献:矢田坐久志玉比古神社境内掲示、大和郡山市公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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