goo blog サービス終了のお知らせ 

妄人妄語 衆議院議員野田聖子さんの選挙公約消去 有権者・国民を愚弄するサイト一時閉鎖に抗議します!「非道」はどっち?

すいませんがコメントはご遠慮いただいてます。選挙公約に関する記事はカテゴリから「野田聖子批判」を選択してください。

チェーン店やポイントについてとりとめもなく。。。

2005-01-22 23:37:02 | Weblog
喫茶店のチェーン店というのは分かりにくいところがある。ヴェローチェとか言うサテンはシャノワールの系列だそうだ。そしてエクセルシオールはドトールの系列である。またCAFE DI ESPRESSOというサテンのチェーンは珈琲館の系列。そんなことはどうでもいいと言えば、どうでもいいが、たとえば珈琲館の割引券はCAFE DI ESPRESSOでは使えない。そんなことはお前以外みんなわかってるという人もあるかもしれないが、そのことをカウンターで断り書きしてあるのを見るとそうでもなさそうだという気がする。

割引券やポイント・カードというのはあまりこういったチェーン店のサイトには詳しい説明がないような気がする。割引券のようなものはたとえばシャノワールなどではよく配っていたが、最近はどうなのだろう。ドトールにはそういったものは一度配っているのを見たことがあるが、基本的にはなく、クレジットカードのようなものを作って豆やギフトを買うことでポイントをためる。それでカタログから好きなものを選ぶことになっているはず。ここのカタログはたぶん入手が難しいがすごくきれいなものであると思う。

今思い出したが、西武のセゾンカードは何年もほったらかしだが大丈夫だろうか。有効期限もかなりめんどくさくて、CD屋の場合はたしかどこも一年で、期限が切れたものをカウンターに出すと取り上げられて処分される。

有効期限で思い出したが、あるビデオ屋はちょっと前まで更新期限が来るとそれを知らせる葉書が来て、それでビデオを一回無料で借りられたはず。ただそのときだけ借りる人がいるせいか、今年は葉書を提示してカウンターで10枚つづりぐらいの割り引き券をもらった。

このビデオ屋は確か100円の日があったはずだが、最近は半額の日が月2回あるだけになったようだ。以前ビデオ屋は安くする競争が激化したと思うが、それでは採算がとれなくなったということなのだろう。

自分はビデオは見られない状態だが、CDは借りている。図書館からも借りているが、結構図書館にもCDはクラシックのみならずたくさんある。

またとりとめもなくなってしまったが、こういうことにか考えが及ぶというのは自分がひまだからということもあるが、都会に住んでいるからだという気がする

松雪泰子の離婚で思い出したこと等

2005-01-21 12:18:58 | Weblog
先日あるネットの配信で「離婚」をテーマにしたものをちょっとだけ見た。

離婚の話しというより「結婚生活の大変さ」というのがテーマであるようであった。

いわゆる「子はかすがい」的な話も出ていたようだ。

以前自分の恩師の人のお宅で聞いた話しだが、生徒の母親が離婚しそうなのだが、子供がかわいそうだからだんなに離婚しないように頼んでくれといったそうで、その先生はものすごくそういうことがいやなようだった。

その話しを聞いていたもう一人の友人が離婚をやめさせるのがいいとはかぎらないということを言って、その先生もうなづいていた。

今この文章を3日ぶりぐらいに書き足していてふと思ったのだけれど、その人は要するに夫婦仲の仲介というより、その先生にグチをこぼしているということだったかもしれない。人の気持ちを想像するのは難しいし、これも今気づいたことtだけれど、子供の担任の先生が離婚をやめるように言うのはすごく変だ。

それともそのお母さんはそういう判断がつかないほどに混乱していたということなのだろうか



離婚はいろいろ計算しなければならない点もあるだろうが、結婚はどうだろうか。計算だけでは結婚できないということは言えるだろう。よく喧嘩している最中に「結婚しようと思ってたのにぃ~」などと叫んで実際結婚してしまった
という話しがよくドラマなどであったと思うが、松雪泰子もそんな感じで結婚した。

そんなことでうまくいくのか不思議だったが、やはり最近離婚したようだ。たぶんこういう人はいずれまた結婚するだろう。そしてまた。。。



かなり前コクって振られた女とその直後にあるホテルのレストランで食事した。その時結婚の話しになって、その女が「結婚は考えてない」というので、自分は「一生一人の人を好きでいるなんて考えられない」というとすかさずその女は「わたしもぉ~」とのたまわったので、男がいながらこんなことを他の男に言う女は実にけしからんと思ったものだ

その女は今結婚してるかどうかはしらない。でもなんとなく結婚して子供もいそうな気がする。少しそれを匂わせる情報も得ている

たぶん、多くの人は結婚するなんて思っても見なかったのにあるきっかけでしてしまい、離婚したいのにいろいろ理由をつけてできずにすごすのだろう

それがいいかどうかは分からない。自分はしたことがないし、自分が結婚するのも想像することさえ難しい

写真はそこへ引っ越すときその女に手伝ってもらった部屋である。前よそのブログにも載せたが。そういえばこの内容もかなりダブっているような

河合塾のセンター試験に関する公開質問状に疑問

2005-01-20 15:13:38 | Weblog
大学入試センターが16日実施した「国語1・2」の試験で出題ミスがあったとして河合塾が公開質問状を出したそうだ。第3問(古文)の問4の選択肢のうち、センターでは(5)を正解としているが、同塾は「正解をひとつにしぼるのは困難」と指摘していて、大学入試センターで対応を協議しているとのことだが、いろいろこの件に関しては疑問に思うところが多い。

まずこの「ニュース」はいろいろなところで取り上げられ、少なくとも朝日は紙面でもとりあげていたと思うが、(小?)見出しに「出題ミスか」と書き足されているものが多く、この件に関してはっきりと「出題ミス」とは書かれていないことだ。

大学入試センターも今だに検討中なのかもしれないが、こんなことは早く回答すべきである。さらに不思議なのは河合塾のサイトにこの件に関するページが見つからないことで、さらに消された形跡もあるようである。

自分はこの件に関して河合塾の「正解をひとつにしぼるのは困難」という指摘は誤りであると思う。そしてこのままうやむやにされるとしたら、非常にまずいことだと思うので、素人考えかもしれないが、以下自分なりの私見を述べる。

あらかじめ断っておくが、もちろん自分は河合塾とも大学入試センターとも何のかかわりもない。また国文学の専門家でもない。問題文全体はリンク先で見ていただくとして、河合塾の主張は報道によればこうである。


       ****************************
 五つの選択肢のうち正しいものひとつを選ぶが、選択肢(5)にある「不孝をわびたい」という気持ちを本文から読み取ることは困難であり、また選択肢(2)にある馬との対話とも読み取れるとしている。
       ****************************


これに対して駿台予備校の問題の講評は以下の通りになっている。


       ****************************
問4はやや難。選択肢2と5とでかなり迷ったものと思われる。問題文前半の「かくとも申さであくがれ出でしが、御恋しければ・・・」あたりから、「としごろ」の中将の母への心情を読み取り、また「心ざし」という語の意味内容、あるいは問題文全体から、傍線部は母への「心ざし」であることを読み取って選択肢5を正答とすることになるが、正答率の低い設問となったであろう。
       ****************************


つまり駿台はこれが出題ミスとはしていないことがわかる。しかしこれでも決して分かりやすい解説ではないと思われる。手短に講評する場合いろいろ書いてしまうとかえって分かりにくくなるので、ここでも書き方が難しいが、2について言うと、「としごろ」は「長年」といった意味であることを考えれば、2の選択肢では馬に自分がお前を「長年」思っていたのだから。。。というふうになってしまい、不自然であると思われる。つまりここで選択肢2の「都をでたときから」という部分とは違うであろうと分かるはずである。

また、選択肢を「中将の誰に対する気持ちか」という点で読めば、「中将の母に対する気持ち」が書かれているのは5のみであることから、5が正解であると分かるはずなのである。

たしかに「こころざし」の具体的内容ははっきりとは書かれていないが、その内容ではなく、あくまで誰に対する気持ちかという点で判断すべきであるので、問題として不自然な印象はあるものの出題ミスとまでは言えないと思う。

河合塾は「公開質問状」を出したのだから、もし自分の主張を撤回するのであれば、一体誰がこの質問状を出したのか、氏名や学歴および経歴も公開すべきであると思う。地理に関する公開質問状については私はよく分からないのであえて触れないが、いかにも宣伝的な感じもする。

またマスコミも大学入試の古文ぐらい自分で判断して出題ミスかどうかはっきりとした見出しをつけられないものだろうか。もし出題ミスでないのに、「出題ミスか」などという小見出しのようなものをつけて報道したら、これは大変な問題である。

いずれにしてもうやむやなまま済ますことだけはやめてほしい。私の記憶が正しければ河合塾は以前丸谷才一の文章を模試の小論文で使用した際、やはり抗議されたと記憶するが、あの問題はどうなったのだろう。自分はどんな文章でも書いた人の意図が全てであるとは思わないし、模試という性格も考える必要もあるとは思うが、それなりに回答すべきだとは思う

もっともこれは回答したのかも知れない。もしこれも決着がついていないようなら、今から調べてまた書きたい気がする河合塾が問題にしてる設問

なぜNHKは森前首相や橋本元総理のコメントを流すのだろう?

2005-01-20 00:45:23 | Weblog
朝日新聞がNHKの元総局長が発言を翻したことに関して抗議している。「言った言わない」の争いと言うのはよくあるが、ニュースソースとこれだけトラブルになるのは珍しい。自分はNHKも朝日新聞もあまりよい印象はないが、NHKは報道に関してはまだましなのではないかと思っている。

ただ昔から不思議に思っていたのは、いろいろなニュース(外交などについてのニュースだったと思う)のあとで、森前首相はこう語ってます、とか橋本元総理はこう語ってますなどと顔写真入りでコメントを紹介していることで、これがなぜなのか釈然としないということである。

この二人の発言力というのは首相の座を降りてからはそれほど大きいとは思えない。首相の座を下ろされた経緯からすればそれが当然であると自分には思える。むろん橋本元総理はその後も入閣したけれども、それがいいことだったとは自分には思えない。なぜNHKがこの二人のコメントを流すのかと言えば、やはりなんらかな形での政治的力学が働いているとしか思えない

コメントを流す場合にはできるだけいろいろな立場の人のものもながすべきでいくら首相経験者とはいっても、特定の人間のコメントをことあるごとにニュースの中で流すと言うのは不自然ではないだろうか

それはNHKの勝手といってしまえばそれまでだけれど、今はいい機会だからこういうこともなぜなのかぜひNHKに訊きたい気がする朝日新聞はトップですごい怒ってる。びっくり。。。
何度もアップに失敗しました。。。

チェ・ジウが除籍なら宇多田もというわけにはいかないのか

2005-01-19 16:05:51 | Weblog
チェ・ジウが所属していた大学を除籍になったという。この人がこれだけの大スターでありながら大学生であったことも驚きだが、除籍というきつい処分とそのことが報道されるということも一種の有名人税ということとはいえ自分には少し驚きである。

日本では休学を重ねた場合、除籍ということにまでなるのだろうか。自分は休学をしたことはないので分からないが、除籍する前に自分からやめるように促すのが普通であろう。

これは他のブログにも書いたことで、話しは変わるが、宇多田ヒカルはコロンビアを退学したのだろうか。アメリカの大学に申し込むときには志望理由などを書いて提出するはずだが、もし入学してすぐ休学ということならあまりにも不誠実ではないだろうか。芸能活動もして結婚するのもいいけれど、はじめから勉強する気などないなら大学など申し込むべきではない。

「サッチー」に「アメリカの大学は入るのはやさしいが、でるのは難しい」といわれて激怒したのは、要するに最初から卒業する気など毛頭なかったということなのかも知れない。

そういえばアメリカの大学に申し込むさい「財政能力証明書」の提出を求めるところもある。コロンビアがそれを求めているかどうかは知らないが、
いずれにせよ、肩書きや名誉だけを求めている人間はそれこそ除籍にしてほしい

宇多田ヒカルは総理主催の晩餐会でブッシュにコロンビアの学生だと紹介されていた。
私の記憶が正しければ、その時「ではなぜ今日本にいるのか」と聞かれて、「休暇中」(on vacation)とか言ってたはず。

まさか 
I dropped out.
とは言えないだろうが、そのほうが事実に近いのではないか。彼女のおかげでコロンビアに入れなかった人はいるはずだし、日本人の評判もさらに悪くなっているであろうことを彼女は考えているだろうか。

まさかのまさか、結婚したのも、学業を中途半端に忘れ、世間にも学生であることを忘れさせるためのものではないだろうとは思うが、そうでないなら自分できちんと早急に問題を片付けるべきだし、いろいろ理由をつけずに、自分が授業についてゆけたのかどうかはっきりさせてほしい。

日本のマスコミがどうのこうの言っているが、教室に行くのも父親をはじめおつきのものとうろうろさがして歩いたりするから騒がれるのだと思う。

こういう事に関して必要以上にいろいろ人のせいにしたりするのはよくない。チェ・ジウ除籍のニュース。それにしてもきれい過ぎる!まさに絶世の美人。。。

サマーズ(ハーバード大総長)の女性差別発言?

2005-01-19 00:50:44 | Weblog
サマーズという人はもともとハーバードの教授だったと思うが、クリントン政権で財務長官(というのだろうか。日本の大蔵大臣にあたる)を務めた。

その後2001年からは、ハーバードの総長をしている。今日この人物が「女性は理科系の分野で台頭できないのは遺伝子的にそうなっているからだ」というような発言をして英米のニュースサイトはこの話題で持ちきりになっている。

自分は男と女である程度向き不向きの分野があることは事実だと思う。たとえば囲碁や将棋の分野では女性プロが男性のプロを負かすのは今では珍しくはないとはいえ、話題にはなるようだ。

しかし理科系の分野で台頭するというのは男でも女でも難しいわけだから、たまたま女性で活躍する人が少ないということがあるのかもしれない。

いずれにせよ発言の真意も根拠もあまりはっきりしないようだが、彼の発言が世界的な大ニュースになっているということは事実であってこういうことをいちいち取り上げるということはやはりハーバードの総長というのは尊敬されているのだなと妙に感心したりする。。。。

もちろん自分は男性でも知的な人もいれば、知的でない人もいると思う。タダ体力だけは男性のほうがあると思うので、むしろ知的な仕事は女性がしたほうがいいかもしれないなどと書くとこれまた問題だろうか?
そのニュースを見られるサイトの一つ

杉田かおるよおまえもか!CONGRATULATIONS?!

2005-01-15 16:36:37 | Weblog
杉田かおるは私と同世代である。したがって子供のころは彼女の子供としての役どころを見てきたし、思春期には思春期の演技を見てきて、最近の負け犬キャラにはこちらは男性ではあるものの、ある種の爽快さを持って見てきた。

一昨日ぐらいの段階では結婚を否定する報道もあったようだが、本当に結婚する(ではなく「した」というべきか)ということを知って複雑な心境ではあるが、本人がそれだけ喜んでいるのでは仕方ないと思った。昨日の夜の番組は見ていないが、いずれ似たような番組がたくさんあるだろうし、ネットなどのニュースを見ただけでも「ご馳走様」である。

英語ではこういうときにCONGRATULATIONSと言ってしまうと「さんざん苦労」してようやく結婚したみたいなので、言わないほうがいいらしいが、これほどこの言葉を言いたい衝動に駆られるケースも珍しいような気がする。

しかし、最近「負け犬」キャラで新たな境地を切り開きつつあったのに、もう「勝ち犬」キャラに「転向」するのも変わり身が早いという気がしなくもない。それとも売れているうちにどんどん話題をさらっていくぐらいがこの業界ではちょうどいいのだろうか。

よく「ゴール・イン」というう言葉昔は使われたが、むろん人生はこれからであろう。ぜひずっと幸せでいてほしいものだ。

アメリカCBSのブッシュに関する軍役疑惑報道で処分

2005-01-12 23:42:32 | Weblog
CBSの60minutesという番組でブッシュの軍役に関して疑問を投げかける報道が昨年の9月にあって、その報道に関する根拠の信憑性が疑われダン・ラザーも窮地に立たされた。外部調査による結果が発表され、処分も行われた。

ダン・ラザーの番組ではあったが、彼自身はその当時カリフォルニアのハリケーンの取材でその番組作りには直接は関係していないということに落ち着いたようだが、3月には番組を降りるようである。

今回の発表に関してもまだ生ぬるいという声はあるが、一応外部調査を行い、調査内容も発表されている。日本ではたしか10年以上前になるが、テレビ朝日のいわゆる「椿発言」が問題になったが、調査はしたものの、全く偏向報道はないというようなことであった。

「ニュース・ステーション」などは当時放送したビデオを一般に貸し出しするなどすれば、問題の箇所はいくらでも指摘されるはずだと思うのだがなぜ全く偏向報道がないという結論がでたのか自分は不思議であった。

今日おりしも安部自民党元幹事長のNHKの番組に対する「介入」が問題になったが、単に政治の側からの報道に対する介入だけでなく、報道の側からの政治への介入も問題だと思う。

ところでこのCBSの件に関しては日本でどれだけ報道されているだろうか。自分も詳しく理解しているわけではないが、日本のマスコミはアメリカのニュースや社会問題を報道する英語力が本当にあるのだろうか。自分はCBSなど英語のサイトから情報を得て書いていて、この件に関して日本での報道を一切目にしていないので自分がここに書いていることは必ずしも正確だとは限らないが、いずれにせよこれは日本でも報道するに値するニュースだと思う。

それともこうした問題はマスコミの存在自体を批判する目を一般大衆に養わせることになるのでわざと報道しないのか。

いずれにせよCBSでは、処分された者たちの実名はもちろん、写真やプロフィールまで全て公開された。日本のテレビ局とはえらい違いだと思うのは自分だけだろうか。

13日追記:12日の毎日朝刊ではこの記事があったようである。



なぜ青色LED訴訟は8億円で和解したのか分からない

2005-01-11 23:59:19 | Weblog
この裁判に関しては以前から自分は疑問を持っていたが、今日の和解の報道にも不可解な点が多い。

まず読売の記事には「高裁で今回の判決を下回る判決が出る可能性がある」とかかれていたようだが、この裁判は今、どのあたりで進行しているのか、ということも含め自分は詳しいことは知らないことをお断りしておきたい。

法律はもちろん、いわゆる会社にも勤めたことはないので、この問題に関しても論じる資格はないかも知れないが、いくつか疑問に感じた点を書きたい。

まずこの和解については弁護団が見解を正式な文書の形で発表しているが、これがまた実に分かりにくい。「本件を和解で終了する理由は、以下のとおりです」としながら、「理由の詳細については、弁護士の依頼者に負っている守秘義務により開示することを差し控えさせていただきます」としている。これでは、そこにかかいてあること以外に何かよほどのことがあって「和解」したとかんぐられても仕方がないのではないか。

なんとも不思議なのは1審?で会社側に200億の支払い命令が出ていながら、なぜ今回8億の支払いで和解したのかということである。200億と8億とではあまりに違いすぎやしないだろうか。

1審で200億の支払い命令が出ていながら、8億で和解というのは数字の上から言えば、原告の完全敗北に等しいのではないかとも思える。

弁護側のコメントにはいろいろなことが書いてあり、他の裁判についてもいろいろ書いてあるが、なぜ他の裁判の事例を持ち出すのかそこがまずおかしいという気がしてならない。もし200億請求したのであれば、その数字にはそれなりに意味があったはずで、その数字にこだわらないのであれば、そもそも原告の請求自体の根拠が問われかねないはずである。

弁護側のコメントには「提訴時(平成13年)以降、職務発明制度につき、大きな変化が生じました。企業は、従来の発明報奨金支払い制度を見直しています」とあるが、これはそもそもこの訴訟の目指したことなのであろうか。他の会社の事例を持ち出すのはいかにも自分たちの和解が「屈服」ではないと強調しているようで、印象はよくない。

「本件8.4億円(利息を含む)の和解金は、額の点で、原審判決に及ばなかったとはいえ、本質的には、画期的勝訴です」としているが、「本件和解金額(8.4億円〈利息を含む〉)は、中村教授の発明より生ずる利益が巨大であるが故に、発明により生ずる利益の額があるレベルに達すると、相当対価の額は頭打ちすることを意味します」とも述べているのを見ると、この和解というものがむしろ他の事例にしたがっているようにも思われ、「画期的勝利」とまでいってよいのかどうか、本人たちが本当にそう思っているのか分かりにくい。

この裁判の意義についてまず第一に「ご褒美(即ち、2万円)から、不十分ながら、発明の譲渡の対価(即ち、8.4億円〈利息を含む〉)への転換です」としているが、どうしてそこに給料が全く含まれていないのかまず解せない。

この裁判の原告はなぜ日本の会社に就職することを選んだのだろうか。もしこのようにある発明に対して日本の会社が十分な報償を与えず、よその国では十分な報償を与えることを知っていれば、その国へ行けばいいだけの話しであるし、その発明・発見をした時点で独立起業することも考えるべきではなかったか。

そもそもこの発明およびその発明による会社の利益というものは原告一人の力によってなしえたであろうか。その辺のところを一切触れずに「会社に対する個(即ち、個人)の確立」ということを言うのはそもそもおかしいのではないだろうか。

自分は、著作権や知的財産権はもちろん大切にすべきであるとは思うが、発明・発見が製品化され成功するには多くの力が必要であると思う。この点に全く原告側が注意していないようであるのは実に残念でならず、訴訟の社会的意義ばかりコメントで論じているのは「問題のすり替え」のようでもっといろいろ考えるべきだと思う。




一度白紙状態でアップしてしまいました。またあとから直したりするかもしれません。

朝日新聞の社説には「しかし」が多すぎやしないか?

2005-01-02 15:48:51 | Weblog
しかし、底に流れるのは古い歴史や文化をもつアジアの共通性ではないか

しかし、地域の政治に目を転ずれば、とても生やさしい現実ではない

しかし、である。東アジアの先行きが不安だからこそ、できることから一緒に進める意味がある

これ以外にも「だが、かの伯爵は書き残している」といった書き方もある。「しかし」という言葉は自分もよく使うがこれほど頻繁に使った記憶はない。あまりこれを使ってしまうと、どこに主張の力点があるのか見失いがちになりかねない。それとも主張をわざと見えにくくしているのか、はたまた主張などない「社説」なのだろうか。

今のアジアは昔のアジアとは全く違うだろう。西洋に組み込まれてしまっているような国も決して日本だけではないはずだ。孫文の「大アジア主義」と「大東亜共栄圏」の関係やクーデンホーフ・カレルギーの「大欧州」とEUの関係はそれほど単純だろうか。自分は歴史には全く弱いけれども、色々疑問はわいてくる。

孫文に触れるなら、台湾問題にも触れてもよさそうなものだ。全ての事柄に触れるべきだなどという気はさらさらないが、「天然ガスなどの海底資源を共同開発・管理する仕組みをつくり、明日の平和につなげるのだ」という主張の裏には尖閣諸島の問題に関して日本が所有権を主張していることを全く無視しているようであきれた。

一度もっとたくさん書いたのに消してしまいました(泣)とりあえずこのへんにしときます。

外務省と日本医大の甘すぎる処分。伊藤喜昭に退職金を渡すのか?

2004-12-30 14:06:40 | Weblog
暮れになると、あまりニュースがなく、各地の風景がテレビの画面をにぎわすというのが理想だが、なかなかそうはいかないようだ。今年の年末は大きなニュースが相次いで、本当は大きく取り上げられるべきニュースがあまり注目されないという事態が現出している。
今朝見たニュースでは以下の二つのものが私の目を引いた。

日医大、臨床経験偽り認定内科医合格の助教授を諭旨免職

ウガンダ大使諭旨免へ 公使時、330万円不正受給 ... 外務省は大使や元館員10人の氏名は明らかにしていないが、諭旨免職となるのは、伊東喜昭ウガンダ大使。 ... 含めた計436万円を国庫に全額返納した。. 外務省は退職金の3割も自主返納させる ...

どちらもあきれるというほかない。外務省はこの件に関して大使およびこれにかかわったものどもの氏名を公表せず、退職金も3割返納させるということは、7割はやるということで、それもまだ確かとはいえないようだ。よくこれで外務省改革云々いえたものだ。もちろん退職金は一銭も渡すべきではないし、これまでの全ての収入も全て罰金として課すぐらいのことは関係したもの全てについてすべきではないか?

とにかく予算を自分で見積もって請求するのはおかしい。生活費は住むところは与えられるのだから、家具も前の人のものを使えばよい。

年末にかけ、クレームのページになってしまうのは残念だが、外務省には本当にあきれ果てる。

しかもなぜか朝日はこのニュースを消した形跡がある。だとしたら、無茶苦茶な話だ。
外務省の不祥事に関するニュースはこちら

電話の先のプラスチックの部分を換えるだけで5千円近く取られそうだ。

2004-12-29 15:15:13 | Weblog
今日電話会社の人が来て何をするのかと思ったら、電話の線を差しこむ先の部分を取り替えるだけで、5千円近くとられるという。先の部分を取り替えたのは、電話のジャック?の部分がはずれて、電話がかかりにくくなってしまうということなのだが、これは先の小さな部品を取り替えるだけのことなのだが、部品を換えなくてもセロハン・テープでとめるなどいくらでもほかに手段はあるはず。

その部分は配線とは関係ない固定する部分に過ぎないので、秋葉原へ行けばその部品は安くで買えるかもしれない。母が電話で問い合わせた時点でどのような話しがあったのか、必ずしもはっきりしないが、母が出張費を払うことも承諾した上で呼んだらしい。

出張に来た人がそのジャック?の部分をはずさないでください、というので、はずせないのかということを私が訊く形で、話しが始まったのだが、部品を換えたのは先のツメが折れているということであるらしい。確かに先日から電話の線が外れやすくなっていたことは事実であるものの、外れれば付け直せばいいだけで、線が外れなければそのまま電話はかかるし、かけられる。

むしろ夜などに間違い電話がかかるのではずすことも必要だというと、それをやるとまたツメが欠けるようになるといい、どうせ欠けてしまうならテープで止めるなりしたほうがいいというと、母親がそれでいいといった、などという。またその部分を普通ははずすことはしないなどと言うが、自分がしている人でこれをやっている人は他にもいる。

音量を小さくすればいいなどというがそうまですることもない。そのときは相手が興奮して話せなかったけれども、線は全く触らずに電源のコンセントをはずせばいいだけの話しではないか。

こういったことを説明しないでお金を取るのはおかしいではないかということを言ったら、お金は要らないというし、そういう問題ではないだろうというと、今度はちゃんと書類を作ってお金を頂きましょうという。

で結局お金はとられることで母親も捺印した。母も工事人もブチ切れて、怒鳴っていたので自分はあきらめてネットで書くと言って見ていた。その修理は普通にやってることだという。自分はまず母親が電話で問い合わせたときに、ほかに手段はあることを説明せずに出張するように話しを持っていくのはいかにも年寄りの弱みに付け込むようで気分が悪い。

こういうこと(現場での出張費をめぐるトラブル)はきっとよくあるのであろう。何も文句を言わないところからは金をとり、うるさいところには金はいらないという。それで気分を害されるようなら金だけとってそそくさと帰ってしまう。

今日は雪の日で仕事は大変だろうとは思うが、ただもともとこれぐらいのことで、いちいち来る必要はなかったのではないか?そこの電話会社はもう休日でクレームは受け付けてくれない。なのに出張だけは来る。これ一つとっても矛盾してないだろうか。

そんなことをして後ろめたさを感じないというのは自分は理解できない。もう少し仕事には誠意を持ってやってほしい。お金は口座から引き落とされるらしい。

母のこととはいえ、どうしても口を挟まずにはいられない。

『少年A全記録』は公務員の守秘義務に違反しないか?

2004-12-24 21:45:57 | Weblog
正確な書名は『少年A 矯正2500日全記録』というらしいこの本の著者の記事を「週刊文春」で見た。現物は買っていないが、いくつか問題を感じた。私は「週刊文春」はいい記事があると思う反面、かなり問題のある記事が載ることもあり、実に困った雑誌だと思っている。

もちろん読者に何らかの問題意識を植え付けることやインパクトを与えることが、ジャーナリズムの使命だとすれば、それはある程度仕方がないこととはいえ、少年Aに関するこの女性ジャーナリストの記事はいただけない。まず、肩書きなどから見ていかにもこの人が少年Aを担当した人だという印象はいなめない。記事の内容も鑑別所での具体的なことについて書いてあるのでまるで、この人が少年Aと長い時間を過ごしていたかのような印象を受ける。

しかし、あるブック・レビューを読むとどうもこれは周辺を取材した内容であるらしい。であるとすれば、この人の肩書きはいかにもこの人物が直接担当した人であるかの印象を与えかねず、誇大広告の感は否めない。

すでにそういう批判がネット上にあるにもかかわらず、またしてもその点を曖昧にするかのような記事を載せているのははっきり言って悪意的なものさえ感じる。

もちろんこのようなことを書くことも一種のアナウンス効果、あるいは宣伝となるのを覚悟で言うが、むろんこの本の著者が直接担当した人であるとすれば、「全記録」を公にすること自体の倫理性を問われるであろう。

私はこの本の成り立ちがそもそもそうした点を曖昧にする形で形作られていることに嫌悪感を感じざるを得ない。

公務員には守秘義務がある。それと同時に情報公開という側面もあり、これは制度化されている。この本の著者は一体「ジャーナリスト」と「当局」のどちらの立場においてものを伝えているのかがはっきりしないのである。

むろん退職すれば公務員ではないが、退職すれば情報をもらしていいのかというとそれは違うであろう。この本の著者は自分の経験を元に取材をしているということのようだが、それがいかにも暴露本的印象を読者に期待させる戦略が感じられるのがもどかしい。

よく元税務官や元警察官の本なども自分の体験をもとに本を書いたりタレント活動をしている人もあるようだが、むろん問題がないわけではないだろう。

元外交官の人などでも、旺盛な評論活動をしている人などもいるが、外務省の問題が明るみに出るまでそういうことは一切言わず、外務省に都合のいいことしか書かなかった印象があり、これにも反発を感じた。

話を元に戻すが、法務教官という立場にあったものが、鑑別所の制度や仕組みなどについて商業的利益と結びついた形でコメントすることは非常に問題が大きいと感じている。法務省の記者会見にも問題が指摘されたことがあったが、こうしたことはあくまで当局の側が発表することにとどめるべきであって、一個人のジャーナリズムによって解説されることではないのではないか。

この「ジャーナリスト」は少年Aの現在の所在について事実と違ううわさが出た事に関して、自分が否定しているように書いているが、これこそまさにうわさがうわさを呼ぶといった類の話しであって、特定のジャーナリストが自分の肩書きを利用して情報を分析するような筋合いの話しではないはずだ。

これはあくまで記憶になってしまうが、少年Aの両親の故郷を「公開」したのも吉岡忍という人の「週刊文春」の記事だったように思う。そこにはその故郷を取材した上で、周りの人間が支えて行きそうだからこれを公開してもいいというような分かりにくい理由も添えられてあったはずだが、全くもってジャーナリストの商魂というのはそこまでたくましいものかと驚いた記憶がある。

私は事件報道というのは極力事実のみを伝える程度にしてあまり周辺取材はするべきでないと思っている。むろん、凶悪事件というのはいつの世にも人々の興味を誘うものではあるが、凶悪事件の報道や分析は凶悪事件の防止や現象ということにつながらないことははっきりしているのではないか。

もっともこうした記事や本が売れるということは、もちろんそれを望む人たちが多くいるということの表れであって、なんとも悲しい現実であり、自分もそれと全く無縁とは言い切れない。

別の週刊誌を開いた瞬間おととい行ったばかりの六本木のCD屋とそっくりな場所が白黒でうっつているなと思ったら果たしてそうであった。

そこには著名な女性バイオリニストがうっつていたが、そばにいた男性もうっつていた。私の記憶が正しければ目には修正が入っていた。

たしか宇多田ヒカルも最初に「激写」されたとき同級生の男と抱き合う場面の写真にはやはり男のほうに修正があった。その男は昔の有名ロック・シンガーの息子であって。そのことが書かれていながら修正が施されているのは犯罪者のようで可愛そうだと思ったものだが、その後同じ写真が修正抜きで同じ雑誌に載ったはずだ。

犯人扱いされるうわさになる男性もかわいそうだが、事件をネタに商業的利益を得ようとするものがこの国に少なからずいることはまことに耐え難い話しであって、このことは加害者の親が出版した本に関してもさんざん言われたはずだが、もうこの国のジャーナリズムや出版文化というのはそういうものだと割り切って考えるしかないのだろうか。

アンサンブル・プラネタ@六本木ヒルズ

2004-12-21 23:55:58 | Weblog
もし音楽フアンが生きる時代と場所を自分で選べるとしたら、どの時期のどの場所を選ぶだろうかということを考えたことがある。むろんこの問題はどの演奏家を聴きたいかということと関係が深い。もちろんそこには、録音として残っている演奏家の生演奏を聴きたいとか、ある特定の演奏家の演奏会をしらみつぶしに行きたいといったかなりぜいたくな欲望とも結びついている。

いずれにせよわれわれは何らかの形で資料として残っている演奏家にしか思いをはせることはできないのであるし、こんなことを考えるのはそもそも馬鹿げていることは自分でも十分分かっているつもりである。

しかし、それでもなお、私は今自分が生きている時代にアンサンブル・プラネタの音楽に出会うことができ、何度も最前列でこのアカペラ・グループの歌声にじかに接することができたことを何ものにもまさる幸せだと感じている。

現代という時代はある意味で演奏家にとって不幸な時代かも知れないということは、すでに遠山一行氏らによって、すでに指摘されていることかもしれない。これだけ録音技術などが発達してしまうと、実際に会場で接することができる生の音に感動することは難しいとも思われる。しかしそれだけに、本当に生の音に感動できるときはその喜びはまた格別なものになるということは言えるであろう。

特に人の歌声というものは、人間自体が楽器になっているようなものであるからその美しさというものを機械が完全に伝えることはできるのだろうかという疑問がわく。

アンサンブル・プラネタの歌声に目の前で接するとき私は、必ずといっていいほど全身が震え、目頭が熱くなるような感動を覚えることを恥ずかしながら告白したい。

自分は以前からピアノという楽器を中心に聴いてきており、声楽の分野には詳しくはないが、リサイタルのようなものにも何度か足を運びそれなりに歌声に魅了されるということは今までにも何度かあった。

しかしアンサンブル・プラネタの音楽に接して感動するときの感動というのは何か違った種類のものだという気がする。まずアカペラだということ、そしてマイクを通して歌っているということなどが思い浮かぶが、今日改めて感じたのはこのグループの演奏というものが、ただ単にコンサート・ホールで聴くということでは収まりきらないスケールの大きなものだということのような気がする。

これは特にこのグループに特有なことではなくてロックのコンサートなどでも野外のコンサートなどでとりわけ感じられることであろう。今日のプラネタのイベントは野外で行われたが、もしかしたらそこで味わえた感動というものはもしかしたらロックのコンサートで感じるような感動と同じ種類のものだったかもしれないとも思うのである。

この項たぶん?明日に続く!

プラネタのサイト(Discographyで試聴可能)

川本三郎氏の『マイ・バック・ページ』の感想文

2004-12-20 15:58:22 | Weblog
川本三郎氏の名前をはじめてみたのはもう15年ほど前のことのような気がする。岩波のセミナーでの感想を『世界』か何かに書かれていたのが最初にこの人の名前を意識しだした頃のことだと思う。永井荷風についての評伝やエッセーはよく知られているし、映画評論の分野ではもちろん大家である。映画パンフレットのようなものにその名前を見つけたこと記憶がある。他にもカバーしている分野は多く、特にアメリカ文学に関しては、下手な大学教授とは比べ物にならないほど鋭い分析に満ちた論考もある。

そんな川本氏の略歴を見てやや意外にに思ったこともないではなかったが、まさか氏にこのような過去があったとは、昨日の夜まで夢にも思わなかった。昨夜は寝不足がたまっていたせいで、途中から読み始めたこの本を途中で断念せざるを得なかった。そしてきょう昼から一気に読んで、久しぶりにいい本に出会ったという感慨にとらわれた。

まさかこの人に「前科」があるとは思わなかったし、朝日新聞社を「懲戒解雇」されたとは思ってもみなかった。「昨今のジャーナリズムは地に落ちた」とはすでに言い古された言葉である。しかし、この評論家のあまりに苦い過去に当人の筆で接するとき、本当に素晴らしい記事は経験した本人にしか書けないのではないかとさえ思ってしまう。

このブログをご覧になった方には、今でも文庫本で手にはいるのでぜひ本書を「逮捕までⅠ」から読んでいただきたい。

私自身は60年代の政治的風土というものに反発を感じていたが、もしかしたらそれは憧れの裏返しだったかもしれないと今は感じている。イデオロギーの違いはあるにしても少なくとも自分にとってこの本は貴重な精神的財産となったことは言えると思う。

取材対象とジャーナリストとのつながりという点で言うと、自分はどうしてもTBSとオウム、あるいは埼玉の連続殺人事件の容疑者?の有料記者会見などを思い出してしまうが、こんなことを書くのが恥ずかしくなってしまうほど、ここに書かれた事実には真摯なジャーナリストの葛藤があり、夢がある。

それにしても逮捕歴がある川本氏がここまで旺盛な執筆活動をしている原動力は実は本書に登場するKなる存在によるのではないかとも思われる。

川本氏はKに裏切られたように書いているが、むしろKはジャーナリストの本質は集団にいては発揮できないことを「川本三郎」という若い記者に知らしめるべく共犯者に仕立て上げたのではないだろうか。そしてその若き記者が今日の川本氏のような活躍をしていること自体がどんな映画よりも感動的だといったら大げさであろうか。

Kという人物はもうとっくに刑期を終えているであろう。そして現在の川本氏のことをどう思っているのだろうか。

果てしなく想像が広がるあまりにロマンチックな物語がそこにある。


注アマゾンに投稿するかもしれません。アマゾンの本の紹介です