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日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック 

2017-12-02 13:25:14 | 大分中央ウィークリー

プロテスタントとカトリック 

五、「教会とわたしたち」(438)     近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その78)

  最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

  7.この世がキリストを信じるに至ったのは、人間的な説得の結果ではなく、神の力の結果である。

  8.この世をキリストの信仰へと獲得するためになしとげられ、世界が信ずるに至った今でもなされてい

     る   

    そのとき、いつ終わるとも見えないような感嘆の声と泣声とが入り混った叫び声が起こった。彼女はたった先刻震えながらも立っていたその場所に連れて行かれた。彼女がその兄とあまりにも違うのを悲しんだ人々は、いまや兄妹が全く同じであるのを見て喜んだ。神が人々の願いを聞き入れられたのは、彼女のために人々が祈り始めたそのときであったことを、彼らは思い出した。人々が口々に叫ぶ声はわたしの耳を聾(ろう)せんばかりであった。彼らの歓喜をかき立てたのが、殉教者のステファヌスがそのために血を流したキリストへの信仰でなければ何であったろう。(前回はここまで)

  9.キリストの名によって殉教者がなした奇跡のすべてが、キリストに対する彼らの信仰 を証しする。

 10.神を拝せんがために奇跡を行った殉教者たちは、自分自身が神であることを人々に 信じさせようと し

      てふしぎなわざをなす悪鬼よりは、はるかに大きな栄誉に値する。

・・・・わたしたちが殉教者のために廟堂を建てるのは、彼らが神だからではなく、その魂が神とともにある(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-12-02 13:23:56 | 大分中央ウィークリー

創世記24章63節である。「夕方暗くなるころ、野原を散策していた。目を上げて眺めるとらくだがやって来るのが見えた。」という。時は「夕方暗くなるころ」であるから、やって来るらくだと共なる旅人は目的地に近づいていることが分かる。「散策していた」のヘブライ語「ラースーアハ」はここにしかない言葉で、文語訳、「黙想する」、口語訳「歩いていた」である。

 

口語訳に習って「散策」がよい。65節の「野原を歩いて(「ラーク」)いた」に調和するが、断定はできない。「黙想する」(シーアハ)は、「(ラー)スーアハ」とヘブライ語文字が同形である。従って、「らくだがやって来るのが見えた」と。それを眺めるだけでイサクには、ドキンと心にあたるものがあった。父アブラハムの命を受けてはるばる嫁探しに出かけたところの、父の僕の帰還であった。

 

64節である。「リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。リベカはらくだから下り、」という。らくだがイサクに向って、近づいて来た。「リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。」という。しかしどこの誰か、リベカには顔をみるだけでは初めての男子であり、旅の目的からしてそれとなく感づいてはいたが、全く分からなかったに違いない。きっと心の高まりを感じてらくだにまたがっているわけにはいかなくなった。

 

互にそれぞれの顔を確認できそうになったのであろうか。長い旅路の据えであるから、それとなく、多分リベカが自分に決められていた男子が迎えに来たのではなかろうかと、感づいたのあろう。確認する必要があると判断した。僕に尋ねるためである。それでだれの指示もないのに、まだ、いくらか距離があるあいだにと思い、いよいよ自ら「リベカはらくだから下り」たのであった。


牧 会 通 信

2017-12-02 13:19:10 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎、)

ダンテ(1265-1321)の「神曲 地獄」編 18歌(その12)

◯あれとともに行くのはそんな風に騙したものたちだが、最初の谷とその牙(きば)に捕へられてるものたちについての知識はこれで十分だ。」

  すでにわたしらは狭い路が第二の堤と交叉して、その堤が次のアーチの支壁をなしてゐるところにゐた。

そこでは次の袋に巣喰ふものどもが鼻息荒く呼吸して、掌(てのひら)でわが身を打つてゐるのが聞えた、

◯堤は酒垢(あか)みたいな黴(かび)で蔽(おお)われていた、それは下から濃く立昇つて眼と鼻を襲ふ、蒸発気がべとべとこびりついたものだ。

底は実に暗く深いので、上に高まり懸かつているアーチの背に登らなければ、わたしらには見えなかつた。

その上に着くと下の堀の中に、人間の便所から汲み出されたやうに見える糞便に漬けられたものたちが見えた。(つづく)

◯本日11月26日(日)の日本聖書協会の聖書本文は、ルカ12章36~48節で、その主題は「目をさまして」

である。その38節「主人が(婚宴から)真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる

僕たちは幸いだ。」という。主人がいつ帰って来られてもよいように心に備えをしているという意味である。これ

はわたしたちの毎日に主イエスのご来臨を待つという心備えのことです。主イエスを迎える毎日の生活です。

主イエスがいつ来られてもよいように、イザというときに迎えるよう備える日ごろから訓練をしているという生活

方法です。そのため先ず毎朝か寝る前に聖書を読んで祈るという日課を持つことである。実行あるのみ。

 

写真は、11月23日(木・休)午後1時30分から2時間。渡辺信夫教師94歳講演「強権国家に生きる私たちの

抵抗権」と題して宗教改革500周年記念の講演を、ルター派ではなく改革派教会の立場から語られた。