日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

牧 会 通 信

2016-02-17 13:25:35 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第12歌(カッコ内は筆子、その12)

◯眉まで沈んでるものたちが見えた、巨(おお)きなチェンタロウが言つた、「これは他人の血と財産を強奪した暴君どもで、

ここでは無慈悲な加害が後悔されてゐるのだ、ここにはアレッサンドロと、多年シチリアを悲嘆に暮れさせた、残忍なディオニシオがゐる。

あの髪の毛の黒い額はアッツォリノ、もう一つの金髪の額はたしかに上の世界で、継子に殺されたオピッツオ・ダ・エスティだ。」

(ここまで前回)

◯そのときわたしが詩人の方を振向くと、かう言つた、「いまはこのものを第一とせよ、わたしは第二だ。」

もう少し先でチェンタロウは立止まつた、真下のものたちは咽まで沸騰する血から出てゐるやうだつた。

片隅に一人きりでゐる霊を指し示して、ネッソは言つた、「こいつは神の懐の中で、いまでもタミチ河の上で血を滴らせている心臓を突き刺したのだ。」(つづく)

 

◯2016年2月14日は第七主日。日聖協「聖書愛読こよみ」は「キリスト者の自由」という主題である。ヨハネ8章31~38節その32節、「真理はあなたたちを自由にする」とイエスはおっしゃっている。何よりもその人自身が自由。これをルターは「何人にも従属しない」そして「何人にも従属する」自由という(Ⅰコリ9・19)。

 

◯写真は、2月2~4日の三日間札幌北一条教会で開催された大会伝道局理事会の理事たち、右端の顔が筆者、南茂昭夫。


プロテスタントとカトリック

2016-02-08 22:38:46 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(348)

4.近代の教会の夜明け   ―宗教改革とその後―ツヴィングリ

「マールブルク条項」の十五項目からなる最後の一つで、不一致となった会談として有名であることは先にもいったのはこのことであった。会談の同席者たちは、両者協調の不可能性をこのようにいった。「しかし、われわれは、キリストの体と血とがそのままパンとぶどう酒の中にあるかどうかは、今一致を得られないが、それぞれの心が悩むことにおいて、互いにキリスト者としての愛にとどまり、双方とも全能の神に対して~正しい解釈を示してくださるように願い求めなければならない」といって別れたといわれる。つまりルター派はパンと共にキリストの体が存在するという共存説を主張するのに対し、ツウィングリ派はパンはキリストの体を象徴するという象徴説であった。それぞれマールブルクを後にした。(ここまで前回)このような過程を経て、なおこの問題が今日になっても完全に両者が一致した見解に至っていない痛みを持っている。

その後のツヴィングリとチューリヒ教会は弱いながらも単独に自分たちの道を開くより方法がなくなった。1531年になるとますますカトリックとの対立が激しくなった。5月に開かれた、チュウリヒやベルンが中心なっている福音主義諸邦の都市同盟会議は、チューリヒは武器を持って戦う主戦論に対して、ベルンが主張するカトリック諸邦に対する経済封鎖論との対立になって激論を交わして、ベルンの経済的封鎖論で闘うことになった。武器の元になる鉄の搬入はもとより、穀物・塩、(つづく)


聖書研究

2016-02-08 22:33:17 | 大分中央ウィークリー

創世記22章12節である。「御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分ったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。』」という。神たるものが、なぜここまでアブラハムを試さねばならなかったのか、いつでも心を変えて神から離れる人間の罪深さをよくよくご存知である。人間は罪深くまったく信用できない。 

ここに、「自分の独り子である息子すら、~惜しまなかった。」というが、パウロはローマ8章32節で、神の子イエスにその完全な従順を見て、「わたしたちすべてのために、その御子をさえおしまず」と。人はこのイエスを信じて完全に救われる。 

13節である。「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」とある。ここのアブラハムの「後ろの(「ハル」)」という言葉はこのように副詞として使われている例がなく、文法的に不自然、転記間違いではないか。1970日本語訳の新改訳聖書はこの「後ろの」を削除、「見回す」必要もないとして「見ると、見よ、角を藪に引っ掛けている一頭の雄羊」と翻訳している。この方が驚きをよりよく表して、目の前に羊が用意されたことを描写される。この種の驚きは、深刻なものではないがわたしたちにもしばしば起こる。 

また、雄羊がイサクの代わりにささげられたということは神学的に贖罪の神学の基盤となった。もし人身供養なら人間の側からの犠牲となり、神の贖いは成立しない。


牧 会 通 信

2016-02-08 21:52:42 | 大分中央ウィークリー

ダンテの「神曲 地獄」編 第12歌(カッコ内は筆子、その11)(原 光訳 2000年、沖積舎)

◯だがわたしをしてかくも野蛮な路を辿らせてゐるあの徳にかけて、お前たちの一人を附添ひとして貸してほしい、

 浅瀬を教へ、空中を進める霊ではないので、このものを尻に乗せて運ぶやうに。」

 キロンは右胸の上へ頭を振向けてネッソに言った、「戻れ、案内してやれ、別の組とぶつかつたら、よけさせろ。」

いまやわたしらは信頼できる警護者とともに進んだ、ぐらぐら煮られているものたちが高い金切声を発する、沸騰する血の岸辺に沿つて。(ここまで前回)

◯眉まで沈んでるものたちが見えた、巨(おお)きなチェンタロウが言つた、「これは他人の血と財産を強奪した暴君どもで、

ここでは無慈悲な加害が後悔されてゐるのだ、ここにはアレッサンドロと、多年シチリアを悲嘆に暮れさせた、残忍なディオニシオがゐる。

あの髪の毛の黒い額はアッツォリノ、もう一つの金髪の額はたしかに上の世界で、継子に殺されたオピッツオ・ダ・エスティだ。」

(つづく)

◯2016年2月7日は第六主日。日聖協「聖書愛読こよみ」は「神の完全」という主題である。マタイ28章16~20節、その18節、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。」主イエスの大宣教命令、神の超完全ゆえである、安心して伝道に励もう。 

◯写真は、2月2~4日の三日間、札幌北一条教会で開催された大会伝道局理事会の理事たちの(1)会議風景。(2)集合写真の右端が、理事長堤隆先生(札幌北一条教会牧師)、(3)大通公園で2月7日から開かれる「雪祭り」の雪像制作風景(A),(B),(C).です。


プロテスタントとカトリック

2016-02-01 11:32:09 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(347)

4.近代の教会の夜明け  ―宗教改革とその後―

 聖餐論の話し合いにおいて大きな成果を挙げたといわねばならない。カトリックの、化体説や犠牲奉献をあらわす「ミサ」を完全に否定すること、そしてパンとブドウ酒の両品目の陪餐の肯定において、ルター派との両教会の一致を確証することができた。カトリックが非難するような、聖餐は単なる主観的想起のきっかけではなく、正に神からの恵みの賜物であり、それはイエス・キリストの真のからだと血との霊的受領であって、それにより弱い心が信仰へと導かれることに一致することが出来た。しかし、ただ一つ不一致が出た。パンとぶどう酒におけるキリストの臨在の様式の違いという従来からの肝心要の問題が残った。「マールブルク条項」の十五項目からなる最後の一つで、不一致となった会談として有名(ここまで前回)であることは先にもいったのはこのことであった。

会談の同席者たちは、両者協調の不可能性をこのようにいった。「しかし、われわれは、キリストの体と血とがそのままパンとぶどう酒の中にあるかどうかは、今一致を得られないが、それぞれの心が悩むことにおいて、互いにキリスト者としての愛にとどまり、双方とも全能の神に対して~正しい解釈を示してくださるように願い求めなければならない」といって別れた。つまりルター派はパンと共にキリストの体が存在するという共存説を主張するのに対し、ツウィングリ派はパンはキリストの体を象徴するという象徴説であった。それぞれマールブルクを後にした。(つづく)