創世記24章20節である。「すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走っていった。こうして、彼女はすべてのらくだに水をくんでやった。」という。何頭のらくだであったのか判らないが、徒歩で一千キロ、約1ヶ月に及ぶ旅路で
あった。少なくとも4~5頭のらくだを必要とするであろう。らくだへの思いやりの心、その切り替えの早さ、敏捷な行動に驚かない人がいるであろうか。
「すべてのらくだに水をくんでやった」という。幾度となく水汲み場とらくだの間を往復したのであろう。労を惜しまない彼女の行動力、腰の軽さにはここを読む読者のすべてに感動を与えないわけにはいかない。彼女は若く、美しいだけではな
かった。その人柄のよさを十分に表現していた。だれよりも僕が感動したであろう。
21節、「その間、僕は主がこのたびの目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた。」とある。アブラハムの僕にとっては、いよいよその「とき」が来たという大事な「とき」であった。神がどうお答えになるのか、僕
の願いどうりなのか、そうでないのか、つまり、彼女は「らくだにも飲ませてあげましょう」といって、その通りに成し遂げるうか、どうかであった。
その終わりまで、彼は黙ってその様子を見ていたという。心の中では、ほぼ間違いなく、初めのこの出来事から神の御心どおりである様子がそれとなく現れていたのであった。従って、この様子を見ている間、恐れ多くも、この出来事がまさに
神のお答えであることがはっきりして来たのであった。従って彼の心には、如何に語り掛けねばならないのか、次の言葉を考えていたのであろう。
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