創世記25章27節である。「二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。」という。二人はその当時の2つの働きの方法を取って別々の生活分野を担当し、相対立する生活様式を身につける結果となった。一方は狩猟生活であり、他方は農耕生活を担当することになったと報じている。食べ物の物々交換はあるが、狩猟は肉食を主とし、農耕は菜食を主とする。
さらに言えば、狩猟は動物の行動に合わせて生活するので単立的であり、狩猟の地域を共に持つわけにはいかない。行動的であり、しかし安定性がない。農耕は、一定の地域に生活の場を持ち、共同的であり、安定性がある。すなわち季節の変化と作物の成長を見て、それに合わせて働く方法を取らねばならない。隣が種をまけばこちらも種をまくという具合である。従って両者は性格の違った社会を形成する。
28節である。「イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、「リベカはヤコブを愛した。」という。この双子はそれぞれに成長したのは良い。しかし問題は思わぬところに発生した。両親がそれぞれわが子を愛するのに両者を同じように愛するのではなかった。聖書は、「イサクはエサウを」といい、「リベカはヤコブを」といいだした。これはその両親が、それぞれの一方を「愛した」という。
ただ愛する理由に父のヤコブは、食べ物の好物からくる愛情をエサウに注ぐのに対して、母のリベカは、愛する理由を表していない。「リベカはヤコブを愛した。」と。人格的な愛し方のようである。これでは、物語の先の、読者には良くても悪くても、一抹の「不安」を抱かせることになる。神の配剤の不平等であるとしか言いようがない。
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