不可解なもの
2004年10月のコラムより移動。
人の「意識」とは、「記憶と感覚応答」という神経作用でしかない。人が、悩みを抱えて自殺なんかをするのは、この「記憶」というすばらしいシステムが感覚系をわずらわせ、「生きる」本能を否定するためなのだろう。つまり、新皮質が、本能の基盤である旧皮質の命令を否定するためなのだろう。言葉を発達させた人が、この「限界のある」言葉による呪縛によって死を「選ぶ」ということなのだろうか。「人」の「思考」の限界は、ここにあるのだろう。コンピューターに「人」ができないことをやらせても、「屋上屋を架す」というような、無駄に「人間にしかできない」能力の延長を課している部分が多いのかもしれない。ここらあたりは、門外漢なので断言できない。
生物は、細胞単位で構成されているが、生命維持には、神経細胞での物質伝達による電気信号の授受が欠かせない。
電気と言えば、電球をつけると、「光」とともに付随する「熱」・「音」・「磁場」が発生する。
人間が、遠い所に居る他人の「視線を感じる」ということを、どう説明できるのだろうか。意識して開閉できない別な感覚というものがあるのだろうか。
人が、「視聽」できる範囲は、他の動物と異なっている。すなわち、人には「可視・可聴」領域というものが存在する(身近な例で言えば、カメラの設定によって人間には見えない瞬間画像)。尾っぽと同じく、捨て去り忘れられ、いまだ科学的に説明できない「本能的」な感覚受容体を、ある時、人は発動させるのだろうか。
西洋の人は、人は「神」に似せて創られたなんて妄想、つまり記憶をたたみ込まれている。神に近いなら、他の動物の「視聴」領域を越えることが、何故できないのかという、素朴な批判が生ずる。
突き詰めれば、人間は、人間の感覚を通して「立ち現れた世界」だけを本当の世界と錯覚しているだけで、動植物にとっては、また別の「立ち現れる世界」が存在しているのである。すなわち、「人」が「実体」ととらえているものは、人の感性でしか説明できないものであり、「実体」の存在を証明する際、はなはだ疑わしい、人間の感性によって生まれた「言語」によってしか共有化されえないという事実があるのである。まさに「色即是空(rupam sa sunyata.=物には実体がない)」なのである。肉体的な感情である異性を求める意識・行為を、「愛」「恋」などと抽象化して、言葉によって「酔いしれる」のは、人間だけなのであろう。人には、理解を超える「不可解」な現象・事例が、未だあまた存在するのである。
ところで、「人は神に似せて創られた」など、東洋人に馴染みがないと思われがちだが、朱子は、「理」が純一(ジュンイツ)なのが、聖人(ひいては人間)であると言っていて、人間至上主義的な見方をしている。対して、王陽明は、「万物は一体のもの」であり、石の良知(=理)も人の良知も同じものとする平等的な世界観を基に、良知が見た物体(人物・環境)には良知をもとに接するべしという論を展開する。
人は、もはや個体では生活できない。共同体の思惑の流れに任せ、平和な共同生活をするのか、戦闘的な生活を余儀なくされるかなのである。「寛容」・「中庸」という、「肉食」中心の西洋人には理解されにくい理念を、どう世界に行き渡らせるかが、地球を「保存」するために必要なのではないだろうか。
さてさて、余興として、私の実体験を、以下に記したい。
私の「不可解」な実体験
いつものように、起きて朝食をとったが、歯をみがく時に、自分の顔が別人のようにやつれていた。かまわず、いつものようにバイクで10キロ先の職場に向かおうとした。その時、信号の判断ミスなのか、アクセル・ブレーキのタイミングが上手くいかず、電柱にぶつかってしまい、本人は胸部挫傷、バイクは部品取りの運命になってしまった。
本人は、数十秒呼吸ができず、のたうち回っていたが、救急車で近くの病院に運ばれた。それは、入院中の母親がいる病棟であった。本人は、左半身がまだ不随意だったが、翌日、自宅療養を許可された。
が、その深夜、母親が死亡した。母親の兄弟たちは、いずれも、突然眼鏡が落ちるなど異常なできごとがあって母の死を悟ったという。また、母の親友であった人は、
「なんで早く来ないの。早く会いに来てよ。」
という夢で、数年ぶりに前日に遠くから見舞いに駆け寄ったのであった。こんな、できごとが畳みかけるように起こったのであった。
荼毘に付した遺骨を仏壇に納めたまま、つまり、遺骨と同居したのだが、あり得ないことに、翌朝、人の気配に悩まされた。また、ありえないことに犬までが、へそくりの千円札をくわえて渡しにきたのであった(以後無し)。
ついでに言えば、近所の寺に遺骨を預かってもらい読経もお願いしたところ、数時間後に、ふと、「私は、行くよ」という言葉が脳裏をかすめたのであった。
【後書き】
二年前のできごとなのだが、「不可解」ではある。裏返せば、人間の不完全性の証明かも。こればっかりは確信が持てない。
親戚の共通体験なのだが、子供の頃、(家の守り神とされる)大蛇を梁で見た。それ以降、「霊体験」などほとんどなかった。ただ、コックリさんを中学生の時やった時に、精神的に不安定になったのか、帰宅時に自転車で転倒して、小指の肉をえぐってしまった経験がある。
祖母の死で鹿児島に何十年ぶりに行ったが、街灯が全くない夜の威圧感・恐怖を再び味わった。普段から「光」のため感覚異常・生活リズム異常を来した人間界と離れ、再び異次元と遭遇した感じであった。本物の自然とは、……?。