これは、片品産のミョウガの大袋1kg入りです。このシーズン中央通り商店街の八百徳の店頭に出ます。一袋600円、多すぎる人には500gにしてくれます。
2kgのミョウガを梅酢に漬け込みました。梅酢は梅漬けから得たものを2倍から3倍に薄めます。薄めるのは煮切った酒と水半々を沸かし砂糖を加えた液です。薄め方、砂糖の量は梅酢の味にもよりますし、好みです。だいたい、2kgで1?~1.5?ぐらいの漬け液が必要です。
この作業は、昨日町内に広報を配った後にやりました。
昨日の昼食、そうめんなのですが野菜たっぷり、少し酸味を利かせたゴマダレがかけてあります。中央にトッピングしているのが前に漬けたミョウガの梅酢漬け、こんな具合に紅生姜と同じに使います。
広瀬川に架かる橋の一つ「桃井橋」です。上毛電鉄の中央前橋駅のすぐ下流にあって、踏切が橋の東詰めにくっついています。それなんで、子どものころは「ふみきりばし」なんて呼んでた記憶があります。
橋の左側にだけ橋柱があります。西詰めも同じ、片側にしか橋柱が残っていないのも面白いのですが、二つに同じように「昭和十年三月竣工」という名板が取り付けられています。橋の名を示す橋名板はありません。
町内の方から、この橋の名前の由来が分からないかなと尋ねられました。他の呼び名もあったような気がするとその方は言うので、調べることになりました。
まずネットで調べたら「日本土木学会付属土木図書館」というところに「橋梁史年表 引用文献」というデータがありました。これは、藤井郁夫さんという橋梁史研究家が作成して土木学会に寄贈したものなのだそうです。
この中に「桃井橋」の引用文献がありました。「雑誌『道路の改良』 1935年発行7月号 169頁」とありました。
1935年は昭和十年ですから、橋柱の「昭和十年三月竣工」という時期と一致します。この橋は、できたときから「桃井橋」と名づけられていたようです。
でも、昭和十年の竣工が、橋の架け替えによるものだとすると、それ以前の橋があったわけです。もう少し調べなければなりません。
前橋市立図書館の資料室に出かけました。資料室のスタッフの方に手伝ってもらって資料を探しました。
最初に見つけたのは「前橋の川と橋」岩佐徹道著昭和58年3月上毛新聞社刊でした。「桃井橋」は写真入で掲載され次のように記述されていました。
「…嬌名の由来は分からない。一時この近くの芳町に住んでいたので懐かしい。橋門柱もしゃれている。橋際の柳も風情をそえている。艶消しなのは踏切りだ。が、致し方あるまい。…」
岩佐さんは、橋名の由来は分からないと書いています。他の呼び名については触れていません。
資料室のスタッフの人が昭和5年の前橋の地図を出してくれました。よく見ると芳町と一毛町をつなぐ橋に「桃井橋」と名前が記されています。
一毛町と芳町のところを拡大しましたから、クリックしてポップアップ画面で見て下さい。橋の名前が見つかるはずです。
つまり、昭和十年竣工の橋の前にも同じ所に橋があって、「桃井橋」と名づけられていたのです。
いつ頃からここに橋があったのか、「桃井橋」と名づけられたのはいつ頃なのかは、もっとたくさんの資料に当たらないと分かりません。
もう一つ資料を見つけました。「前橋新風土記」 酒井松男編 昭和28年10月前橋風俗研究会刊です。このなかに「一毛町」のことが書かれていました。
そのおしまいのほうに、「序で乍ら(ついでながら)桃井橋の風情のよさと、上電傍に並んだ一杯飲み屋の近代的なけばけばしさを上げておこう。桃井橋は川向こうに無縁墓地などがあった関係で、一名無縁所橋とも呼びなされてきた…」という記述を見つけた。
別名「無縁所橋」、桃井橋はこういう名でも呼ばれていたらしい。
ついでながら、文中に歌人浦上一渧さんの名が見られるのですが、浦上さんがお住まいだったところに、今ヒゲクマは暮らしております。
名前の由来は分かりませんでした。「無縁所橋」という別の呼び名があったことがわかりました。
もう少し古い地図等の資料の所在を捜して見ましょう。また何か分かるかもしれませんから…
広瀬川は、前橋のまちの中を流れる人工の農業用水です。橋もたくさんにあります。その橋の名の由来をヒゲクマはほとんど知らないことに気づきました。
桃井橋の一つ下流の橋「十六本橋」は、「十六本堰」という広瀬川に付けられた取水堰の名前に由来しています。
土地の名やなんかを使っているのも由来が想像できますが、「桃井」という名は一毛町にも芳町にも存在していません。
どうして、こういう名前になったのかな…
夕方、エノコログサの穂についたアブラ蝉の抜け殻をきさくで見ながら酒を飲みました。
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十六本堰の由来をネットで調べると、鎌倉か室町の時代に、旧利根川を利用して堰を造り、その際に十六本の丸太杭で造られていたことに名の由来があるとか??勉強になりました。
桃井橋物語続報を期待しております。
十六本堰の名前の由来もしっかりしたのがありますからすぐに紹介します。
江戸時代につくられた堰の名前はわりと由来がちゃんと伝えられているみたいです。
地図を拝見すると、中川小の斜め向かいに『高等家政女学校』の文字が。『あの空き地はなんなんだろう?』と思ってましたが、昔は前市女(1960年に移転)だったんですね。(その間に何かあったのでしょうが)また勉強になりました。その前市女も市前になり細井のほうへ移転しましたが・・・・。
「市立病院」とあるのは「避病院」、伝染病患者の隔離を目的とした病院です。
江戸末期にアメリカから侵入したコレラの大流行を機会に全国各地に作られました。二代目に聞いたら、猩紅熱で隔離されたことがあったそうです。隔離されるときには寝たまま乗れる人力車が使われたとか…
昭和22年、第二中学校が開校されるのとあわせて廃止されたようです。
ノブとツナさん
ユキ子さんには4人のおばさんがいるのですが、そのうち二人が家政学校を卒業しています。うち一名は、家政学校から東京の高等女子師範(現御茶ノ水大学)に進んでいます。こういうコースで勉強した女性もいたのです。
それから、家政学校の入り口には朝倉食品の所有地があって、そこに前橋で最初に「マンション」と称する賃貸住宅が作られ注目を集めました。建物は今も残っています。
友人に『十六本橋』の由来を教えてあげたら、お礼に『あそこには石井パンがあったんだよ』と教えてくれました。
マンションは早速拝見に行きたいと思います。ありがとうございました。