石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争22 会津藩魔の7月29日

2018年05月04日 | 会津の歴史


会津藩魔の7月29日

 会津古城研究会長 石田明夫  

 会津藩の戦いは、東の白河城と二本松城の戦いが良く知られていますが、西の越後でも激しい戦いがありました。そのなかで、7月29日は、東と西で、会津藩を左右した激しい戦いがあり大きな敗北をしたのです。
 7月28日『会津戊辰戦史』、西軍は、西軍に寝返った新発田藩預り沼垂港と海上の摂津艦ら三隻から、新潟港を守備する会津藩、米沢藩、仙台藩の六小隊(約300人弱)に砲撃をしたのです。『若松記節略』29日には、西軍300人が川上から押寄せ、信濃川西側の白山神社付近にあった会津藩陣地と新潟港は陥落したのです。この戦いで、米沢藩総督の色部長門が戦死し、米沢藩は、以後戦意を喪失し会津藩を裏切ります。
 また、同日長岡城は、『牧野忠毅(ただかつ)家記』に、西軍に再び攻められ「我兵遂ニ支持スヘカラサルルヲ知リ、乃チ弾薬諸機械ヲ火シ」と弾薬に武器に火を放って退却し、再び城は落城しました。
 さらに同日『七年史』に、東軍を裏切った三春藩は、二本松の阿武隈川東の小浜にいた西軍を先導し、二本松藩の主力部隊が須賀川方面にいた不意を突いて攻撃したのです。城には主力部隊がおらず、白虎隊より若い二本松少年隊が出撃するものの持ちこたえられず、藩主丹羽長国は米沢へ逃れ、家老丹羽一学は城に火を放ち自刃し落城しました。
 加えて、二本松城の落城の知らせ受けて、福島城の藩主板倉勝己(かつみ)も城を明渡し、米沢藩へ逃げます。また、仙台藩では『七年史』、弾薬不足を理由に、石筵(母成)峠から猪苗代に出て、桧原峠を越え、米沢へ帰ってしまいました。この日以後、仙台藩は戦意を喪失し、会津藩を裏切るようになります。

写真は、新潟港

会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。