石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

会津の歴史34  小笠原流の祖長時墓「大龍寺」

2007年10月08日 | 会津の歴史

小笠原流の祖、小笠原長時の菩提寺「大龍寺」

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市

075070917_007 信濃の守護大名だった小笠原長時は、武田信玄に敗れて、上杉景勝謙信から最後には会津の葦名家を頼り、会津へ落ち延びます。そして会津で家臣に殺されます。そして建てられたのが桂山寺で、寛永20年(1643)に山形から保科正之がこの寺に入り、大龍寺と名前を変えます。寺には、長時と奥方、娘の墓と位牌があります。また、娘が愛用していた木造の人形の一部もあります。小笠原家は、その後、子が長野県の松本へ戻り、深志城と呼ぶ松本城を築城し、徳川家康に協力し、明石から小倉の大名として幕末まで続きます。小笠原家の分家肥前藩は佐賀藩の隣で藩で、佐賀藩ではこの寺が、小笠原氏ゆかりの寺であったことを知っていたため、市内の多くの寺が戊辰戦争で焼かれたものの、この寺は焼かれることはありませんでした。寺は、松平容保の子容大が生まれた場所でもあり、駕籠や遠州流の庭が残されています。会津戦争では、本堂は焼けずに残り、西軍はこの寺を病院として使用していました。寛永20年の本堂や幽霊の足跡というのがあのます。秋の紅葉時期は、絶景です。

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