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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

目には見えないこと > モノと数

2013-05-26 03:59:32 | エリクソンの発達臨床心理
 エリクソンは、心の根っこにある傾向をはたして変えられるものなのかどうか、という疑問にどう答えるのか? それが問題です。しかし、今日はその前に、人間らしさと人間らしい力について、大事な点が教えられます。それは信じることに関係します。翻訳します。





 ジョージ・W・ボールは、戦争が起きた時、起きた所にいたまさに張本人ですが、『合理性の罠』という注目すべきコラムを出版しました。その著書の中で、ボールは、「シンクタンクの戦争」とキャプションを付けられたことに対して、異議を唱えました。また、ペンタゴン・ペーパーの対話と呼ばれていること、すなわち、ゲーム理論とシミレーションモデルを戦争に応用したことにも異議を唱えていました。私どもは、腕もあり、信頼もできる玄人の手になるシナリオが、専門的に有益なのかどうかということは、ここでは問わないでおきます。それよりも問われるべきは、まさに危険に晒されているのは、シナリオが持つ「自然な」力である、ということです。その力とは、つまり、信じることにあまりにも飢えているので、技術的な小道具によって、現実以上のリアリティがシナリオにあると思い込んだ人々に対する、そのシナリオの影響力のことです。ペンタゴン・ペーパーは、「ベトナム戦争の純粋な作戦遂行としての側面にこだわる強迫観念へと導くものだ」と訴えてから、ボールは、この記念すべき結論に達します。

一群の、有能で、一生懸命な人たちが道を踏み外したのは、戦争を非人格化した上に、戦争を、資源を配分する練習問題であるかのように扱いすぎた時、私どもはベトナム戦争の他の側面にある最高の長所が見えなくなったから、なのです。その別の側面とは、目には見えないこと、すなわち、意志の要素であり、目的と忍耐の要素であり、苛酷だが、ひとつの対象に絶えず命を懸けて関わる要素です。…しかし、それこそ北ベトナムの勝利の秘密ですし、数の論理に対して魂が叫んだ非難です。
 






 今日の翻訳はここまでとします。
 今日のところは、評論の引用が中心なのに、まるで、『星の王子様』ですね。目には見えないものがモノや数に勝利すること、権力が作ったペンタゴン・ペーパーは、その真実から人々の眼を奪い取って、モノと数でこしらえた現実が優っているかのような幻想をもたらすシナリオに眼を眩ませるものだ、という主張が、ボールの指摘であり、エリクソンの主張でしょう。
 それから、モノと数でこしらえた現実が優っているかのような幻想を、死に物狂いで信じ込むのは、目には見えないことが信じられないことが根っこにあるというボールの指摘は、「まさに注目すべき」非常に大事な命題です。
 心の根っこにある傾向が変わりうるのかどうか、エリクソンはなかなか言ってくれません。しかし、今日はこんなところで失礼します。
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心の根っこにある傾向は変えられるの?

2013-05-25 04:56:27 | エリクソンの発達臨床心理
 鋭い政治学者ハンナ・アーレントならではの、鋭い現実認識がエリクソンによって紹介されました。それを受けて、今度はエリクソンの鋭い現実認識が示されます。それでは翻訳です。





 アーレントが示唆した二つの結論は、私どもにも当てはまります。つまり、こういった嘘は、重要な歴史的な側面で、「過去の歴史という背景」を超えていくのです。その嘘そのものが、完璧な力強い物語であるばかりではなく、まさしく、人間の心の根っこにある傾向なのです。

嘘をつく能力、事実に基づく真実を故意に否定すること、事実を捻じ曲げる能力、振りをする能力は、互いに関係しています。こういったことが存在するのは、同じ源、すなわち、想像力のおかげです。したがって、私どもが嘘をつくこと、特に、振りを演じている人々の中で嘘をつくことを話題にする際には、嘘が政治に忍び込むのは人間が罪深いという偶然のなせる業ではないことを自覚しておきましょう。つまり、道徳的に憤慨しても、それだけで、嘘を消し去ることにはならない、ということです。

 これこそ、私どもがなすべきことだと思われます。つまり、実際に、人間の心の根っこにあるこの傾向、すなわち、様々なシナリオを想像するあの能力、そのシナリオは、適当なビジョンを探す際に、振りとして役立つかもしれませんが、行動を、情の面から見る時だけではなく、経験的知識の面から見ても高級品にまで高めてくれるかもしれないシナリオのことですが、この心の根っこにある傾向、あのシナリオを想像する能力は、はたして変えられるものなのかどうか?
 この関係で、いわゆるゲーム理論は、特別な評論を受けてきました。トム・ウィッカーが言っています。「戦争の仕掛け人たちは、(戦争を)もはや戦争として見るのではなく、外国に行ってやるゲームとして見ている感じです。彼らにとっては、戦争で使う爆弾は、単なる合図であり、戦争がもたらす死は、人の命とは何の関係もありません。」




 ちょっと中途半端な感もありますが、今日はここまでにいたします。しかし、ここでも重要な指摘がありました。すなわち、ハンナ・アーレントが指摘した結論と関連した指摘です。すなわち、ひとつは、政治の世界で嘘は、嘘の自覚がないまま繰り返される、ということですし、もうひとつは、その嘘を言うことは、心の根っこにある傾向である、ということです。これは、政治の世界の人だけに当てはまるのではなく、当然、私どもにも当てはまるということがポイントです。
 ですから、権力者の嘘に似ている親の嘘の場合も、嘘の自覚がないまま繰り返される、ということですし、また、その嘘をつき続けるのは、心の根っこにある傾向である、ということです。さらに申し上げれば、親の嘘を支える心の根っこにある傾向は、はたして変えられるものなのかどうか? ということでしょう。
 それにエリクソンはどう答えることになるのでしょうか?
 それは、続きをお楽しみにしていただきとうございます。
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現実とのやり取りを失ったウソ

2013-05-24 05:29:35 | エリクソンの発達臨床心理
 権力者の嘘に対して抱く国民の気持ちと、親の嘘に対して子どもが抱く気持ちが、おんなじものであることが分かりました。今日はより具体的に、報道の中身が語られます。それでは翻訳です。





 2つか3つ、多様だが代表的な実例を、私が当時読んでいたものから引用してみましょう。まずは、「合法的」な段階のものから始めましょう。アーチボルド・マクリーシュの(ミュージカル)『スクラッチ』に対する、ウォルター・ケーレの評論は、「しかし、私どもは信仰を失ってしまった」とキャプションが付けられました。ケーレは、舞台中央の揺れる馬に注目して、静かに思いを巡らします。

マクリーシュ氏のリズムは、かつて私たちのリズムもそうだったが、(私たちの目の前で、しかも私たちの耳には驚いたことに)揺れる馬のリズムとなった。眠気をそそる音楽を、私たちはどこかに置き去りにして、抑揚は、私たちの確信と共に、眠りに落ちた。

 私どもが、「戦争という劇場」のような、劇場になぞらえて、初めて申し上げることになることに取り掛かるために、コラムニストの中には、似たような絶望的な言葉を口にする人もいました。つまりそれは、脚本(大まかな筋書き)がその意味を、ゲームがその論理を、楽しみがその精神を失ってしまった、ということです。それは、ペンタゴン・ペーパーの時期でした。ハンナ・アーレントは、核心を突いた記事の中で、国民に対してなされた政府の嘘が、その嘘をついた本人の自己欺瞞であることをあまり強調しませんでした。彼女が疑ったのは、現代の政治では、嘘をつく者は、はたして自己欺瞞から始まるのか、ということです。ですから、「役者たち自身が、自分たちが隠していることや自分たちが嘘を言っていることの背後にある真実を、もはや知らないし、自覚している訳でもない」、そのようにして、「現実とのやり取りを失ってしまっているので、事実、シナリオも観客も劇場から借りてきている」のです。実際、ペンタゴン・ペーパーからの直接の引用が示すのは、自己欺瞞的な問題解決者は、まったく同じ時に、内外の反対陣営の関係のある観客に媚を売ろうと努力した、ということです。その反対陣営とは、「共産主義者(強い圧力を感じていたに違いない)、南ベトナム(その士気は上がったに違いない)、我々の同盟国(私たちを保険者として信頼したに違いない)、それからアメリカ国民(リスクの負担を、自分たちの生命と名声と共に、維持しなければならない)です。




 ここでも、権力者の嘘は、親の嘘に似ています権力者の嘘は、現実とのやり取りを失ってしまっているので、自分が嘘を言っていることに無自覚であるように、親の嘘も、現実とのやり取りを失ってしまっているので、自分が嘘を言っていることに無自覚な場合があります。言葉を換えれば、権力者も親も無意識に嘘を言っていて、無意識に偽り(嘘の)の役割を演じている場合がよくあります。この場合、言っている事とやっている事に自覚がなく、無意識である点で、猛烈な慣性と、変化に対する猛烈な抵抗があります。言っている事とやっている事に自覚がなく、無意識であることが、たとえ、国民と子ども達を根底から傷つけるものであっても、いつまでも続くかのように、嘘と偽りの役割を続けていられるのも、そのことに無自覚であり、無意識であるがゆえなのです
 本日はここまでにいたします。
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権力者のウソ

2013-05-23 02:17:45 | エリクソンの発達臨床心理
 ウソとフリが、マックス・ウェーバーの「精神なき専門人、心情なき享楽人」を彷彿とさせるものであることが分かりました。つまり、自由と喜びのある生活ができない生き方だと言わなくてはなりません。
 今日は、当時のアメリカ人の大衆の意識にある一つの傾向が取り上げられます。それでは翻訳です。




 この序説では、大衆の意識にある一つの傾向に集中してみましょう。その大衆の意識傾向とは、最近の国家的危機の中で特にハッキリしてきたように思われる傾向です。すなわち、政府高官たちのお芝居に対する一般的な疑惑ですし、伝統的国家の具体的行動予定(台本)とは相いれない嘘くさい、権力者の大まかな筋書き(脚本)に対する疑惑です。このイメージは、この講演の準備をする内に気付いたのですが、日刊紙の、ある種の秩序を反映していました。私はハーバード大学を退職して以来、折に触れて日曜版の新聞各誌を本当に何とかフォローできました。そうする中で実によく分かったことですが、遊びとなぜか関係するテーマが、ひどい嘘のあらゆる意味で、想像上で振りをすることのあらゆる意味に加えて、当時のニュース解説者の雰囲気を特徴づけていた、ということです。それはまるで、楽しい行動の自由が失われることに対して、みんなが悲しんでいるかのようでしたし、お芝居を、嘘をつくために用いていることに対して、みんなが底知れず怒っているようでもありました。さらには、ある種の斬新な「ビジョン」に対して、みんなが、漠然とではあっても、郷愁を抱いているかのようでもありました。いまや、明らかだと思いますが、ある年の日刊紙から何を引用しても、それはたちまち時代遅れと思われます。しかし、日刊紙からのその引用が、もしかしたら、ある種の根強い長期的な傾向を示しているかもしれません。有史以前から今まで、才能のあるニュース解説者なら、現実と現実ではないこと、合理性と狂気、信じられることと半信半疑と嘘、なかんずく、具体的行動予定(台本)と大まかな筋書き(脚本)、そのそれぞれに同程度に、心奪われていたのかな、と思っても仕方ありません。アメリカン・ドリームは、ある人々が主張するように、今や悪夢となりました。信ぴょう性は、言っていることと現実のギャップどころではなく、その間の「深い溝」によって脅かされてきたと言われます。つまりそれは、政府の嘘が、たまにつく嘘では毛頭なく、すべての人の足元をすくう流砂のように、広がっているように感じられた、ということです。




 権力者の嘘は、親の嘘に似ています。国民に対して政府が権力者であるように、子どもに対して親が権力者である場合があるからです。エリクソンは、そのことを言いたくて、ながながと、当時の権力者の嘘を記したのだと思います。しかも、権力者が国民に対する奉仕者であることを止めて、権力者として国民に対して振る舞う時に、国民が感じる、悲しみ、(激しい)怒り、郷愁は、親が慈愛に満ちた奉仕者であることを止めて、権力者として子どもに対して振る舞う時に、子どもが感じる、悲しみ、(激しい)怒り、郷愁と同じです

 本日はこんなところで失礼します。
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ウソとフリ マックス・ウェーバーを彷彿させるもの

2013-05-22 02:10:34 | エリクソンの発達臨床心理
 大人になって、あんなに楽しかった遊びを、つまらないものと見なすようになると、その人の人生もますますつまらないものになる。エリクソンは実に面白いです。
 今日は、遊びの嘘(ウソ)[実際は違うのに言葉だけ装うこと]と振り(フリ)[実際は違うのに見た目だけ装うこと]です。





 しかしながら、「遊び」という呼び名は、ウソとフリにも、使われます。ウソとフリは、現実を乗り越えるのではなく、否定します。ここで私は、私どもの便利な文明社会に存在する、2つの相入れない傾向を取り上げてみたいと思います。すなわち、一つは、新しく、しかも、広く行き渡った傾向で、楽しいふりを装ったり、時にはお酒や薬の助けを借りて、様々な役割を(たとえば、恋人「ごっこ」や、人間関係という名の「ゲーム」で)装ったりすることですが、たいていの人が情緒的に応じられないくらい、いろいろな要求をしてくる傾向なのです。もう一つは、大人たちが「役を演じ」ようとするぞっとするほどの決心があります。つまり、まったく見返りがないのに、避け難い現実と思われることから強いられた配役の中で、自分たちの立場を演じる、というぞっとするほどの決心です。




 遊びの否定的側面が取り上げられます。楽しいふりをしてはしゃぐことと、立場上やむを得ないと思われる、状況から強いられた役回りを演じることです。これは、遊びと仕事をする現代人(特に、日本人)の姿、と言えるでしょう。ここのところはマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の最後の件「精神なき専門人、心情なき享楽人」を彷彿とさせるところです。エリクソンは、いずれも、「遊び」に分類します。しかし、それだけではありません。この「遊び」であるウソとフリを、人生をつまらないもの、楽しみも喜びもないものに変える特効薬=毒と見なしている、と思われます。
 今日はここで失礼します。
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