“糞づまり”から出た宝物 「幸いなるかな」への不可欠な道 四訂版ルターは、改革や刷新とは無縁な「中世的人物」と思われていたみたい。偉大な改革者とは全く無縁に見えた、ということらしい。でもね、…。 p176...
先日のブログでご紹介した、井上ひさしさんのことばが掲載された朝日新聞、その翌日がこの、シモーヌ・ヴェイユの言葉でした。
シモーヌ・ヴェイユは、私が好きな女性哲学者の一人です。この人の文書も、折に触れて、読み返しています。それは、命がけで信頼や真実を守ろうとした人に対してだけ感じることが出来る、あの輝きを、シモーヌ・ヴェイユにも非常に強く感じるからなんですね。
がしかし、新聞に出ていたシモーヌ・ヴェイユの言葉を読んだことはありません。
私どもはどこに向かっているのでしょうか? 鷲田清一さんは、重い課題があるとは分かっても、それにどう立ち向かったらいいのか、途方に暮れている今のニッポン人についても語ります。
重い課題に直面するためには、私どもはそれだけの心のエネルギーが必要ではないですか。エネルギーの源は「根」からくるものでしょう。ご存知の方もあるとは思いますが、シモーヌ・ヴェイユのキーワードは、ヒュポメノー(神を待ち望む)と、「根をもつこと」L'enracinementです。しかし、この「根をもつこと」は、簡単そうで、難しい。シモーヌ・ヴェイユ自身が「根をもつこと、それはおそらく人間の魂の最も重要な欲求であると同時、最も無視されている欲求である。またもっとも定義が難しい欲求でもある」と言うほどです。しかし、私どもは様々な集団に参与することで「根をもつ」ことが出来るのだそうです。根をもつことは、「道徳的・知的・霊的な生の全体性なるもの受け取ること」でもある、とも言います。
私どもは、重い課題を引き受けるためにも、参与する「集団」に対して、意識的、意図的、内省的でありたいものですね。
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