聖書の言葉: 「あわれみ」と「お祈り」しゃべらない愛着障害の子に、感覚運動セラピーをしたケース 法の支配 the rule of law と恣意的支配 法の支配。民主主義の原理の......
今宵は,Toys and Reasons の第1部,第3章,Seeing is Hoping. 「見ることは、望見ること」の第5段落の途中、p.45の3行目途中からです。この第5段落そのものが,エリクソンが実践し,理論化したすべてが書かれています。以前の翻訳,
「新しい人」になれた! 子どもの笑顔 大江健三郎
も,良い線まで言っているんですが,まだまだ不十分なところがありました。が,すべてを翻訳するのは,今しばらく後にして,きょうは,その結論部分だけを翻訳するに止めます。
このように、悲しき運命になりそうなこと(訳注:個体発生,すなわ,1人の人の発達)が系統発生(訳注:発達の予定表)の中で同じ所をグルグルと繰り返していたことが、いまここで,日々を陽気で楽しい礼拝にすることで,思い通りに自由になることを通して、天なる神様が約束してくれた通りの復活へと変わります。こうなれば,おそらく,私どもは,全うになれます(神様と一体になれます)し,自分も,人を大切にするし,人からも大切にされる者に成長できます。このような,隠されてはいても,完璧な礼拝のお祈りの言葉から,あの決して忘れることができない笑顔が(私はこの子どもの笑顔を、心の奥底から自由にされた勝利、と呼びたいんです)始まります。その時、その子ども達は(訳注:十字架のキリストが,最後に言ったように)「できた」とキッパリ言うものですよ。
エリクソンの臨床とライフサイクル理論が,日常生活を礼拝にすることであること,エリクソンの理論と臨床実践のすべてが,キリスト教の教えを,日々の生活の中で具体的に深く理解したことに基づいてることが,如実に表れています。
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