ほんのささやかなことが、単なる些事じゃぁなくて、一生を左右する…。だけど、それだけでもない。永遠を左右することでもある…。だから、人生は不思議に満ち満ちているんですね。ア・センス・オブ・ワンダー a sense of wonder。これがあると、人生は不思議の塊 lots of wonder になる、素晴らしい世界 a wonderful world になる…。
The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p40の第3パラグラフ下から9行目途中から。
このようにして、あの楽しく陽気な、でも、志に満ちた対話は、赤ちゃんとお母さんの最初の出会いがどんなものになるかを左右するものなんですが、「眼」の輝き、「顔」の特徴、「名前」を呼ぶ声が、お母さんという大事な他者を始めてそこにいるとリアライズする、分かる、欠くべからざる素材になると同時に、お母さんという大事な他者がそこにあるとリアライズする、分かる、欠くべからざる素材になるんですね。
赤ちゃんとお母さんは、「眼」と「顔」と「名前」によって出会うんですね。赤ちゃんは、お母さんの、「眼」と「顔」と「名前」によって、眼の前の人がお母さんだとリアライズする、分かる。お母さんも、赤ちゃんの「眼」と「顔」と「名前」によって、自分の赤ちゃんがリアライズする、分かる。わざわざ、カタカナで、「リアライズする」、と「分かる」を元に戻して、ここに記しているのは、なぜでしょうか?
これはね、相手の「眼」と「顔」と「名前」によって、初めて自分が赤ちゃんとなり、自分が「お母さんに」リアライズする、「なる」という意味を同時に示していることを、ハッキリと示したいからなんですね。
お母さんは、1人の赤ちゃんのおかげで、初めてお母さんになることができます。
赤ちゃんは、人のお母さんのおかげで、初めて赤ちゃんになることができます。
それは、相手の「眼」と「顔」と「名前」が眼の前にあることによってはじめて可能になることです。
逆に申し上げれば、日本のように、長時間労働と長い通勤時間が労働者に強いられている社会では、相手の、「眼」と「顔」と「名前」が眼の前にあることができませんから、「赤ちゃん」も「お母さん」も、ホントの意味では、なかなか存在しない社会になっちゃってるんですね。
これも狂気の沙汰、安倍晋三首相のおかげと考えて、考え過ぎじゃぁない。