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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

聖書の言葉 : 見るを探す=人間

2017-02-11 06:29:48 | 聖書の言葉から

 

 

 

 
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 サイコセラピーをしていますとね,聖書の言葉が,実に人の心のことを言い宛てていて妙,ということにしばしば出逢います。「聖書の神様は,本当に人の心が解かる,ありがたい存在だ」,とつくづく感じます。

 今日の聖書の言葉,「見るを探す」,変だと思いますでしょ。最近繰り返し取り上げている,徴税人のザアカイのお話。『新約聖書』の3番目のイエス・キリスト物語「ルカによる福音書」に,背が低かったザアカイは,人の後ろにいたのでは,イエスが通るのが見えませんから,桑の木によじ登った話があります。第19章です。前田護郎先生の翻訳で,振り返っておきたいと思います。

「 ザアカイの入信

19章 1彼はエリコヘ入って町をお通りであった。2そこにザアカイという名の人がいた。取税人の頭で、金持であった。3イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低いので、群衆のため果たさなかった。

 
 この「見ようとした」というのが,逐語訳で訳すと,「見るを探す」になるんです。ギリシア語では,ἐζήτει ἰδεῖν エゼテイ・イデイン です。ἐζήτει は,「探し出す」を意味するζητῶ ゼトーのアオリスト三人称単数です。ἰδεῖνは,「見る」を意味するεἶδον エイドンの不定詞です。

 ザアカイは,イエスを「見ようとした」「見るを探した」訳ですが,それは同時に,自分を「見るを探す」ことに通じていたわけです。なんせ,仕事柄,人の金をかすめ取って,金持ちではあっても,「裏切者」と自分でも何となく思っていますから,心穏やかではなかったはずでしょ。自分でも自分をどこか責めていたんでしょう。でも,それでは落ち着きませんし,自分は死んでしまいます。

 ザアカイが心の底から欲しいのは,ですから,お金ではありません。自分を肯定する見方,自分を肯定してくれる味方です。そして,イエス・キリストこそ,その見方,その味方でした。

 ザアカイに限らず,人は「見るを探す」存在かもしれませんね。自分を肯定する見方,自分を肯定してくれる味方を探している…

 その見方,その味方をする存在,「共に見る」「共に見通す」存在が大事です。

 なぜなら,人の良心=こころは,「共に見通す」συνείδησις シュネーデシスだから


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