
#エリクソンの命懸けの叡智 #ライフサイクル とは #神様の命の回転 #100万ピースのジクソーパズルの最後の1枚発見 #現象と心の内奥は母子関係アンソニーの発達トラウマ障害(DTD)は、母親譲り 「もうダメだぁ」 心が挫かれる体験 ヒューマンサービスの担い手が堕落するのは、この時 男と女の......
ロバートは先生にも恵まれていたので、本当に良かったと思います。「自分から物事をはじめても良いという感じ(自発性)」が、「自分は悪い子という感じ」に勝って、のびのびとした小学生になっていったと想像します。子どもの不安をハッキリ言葉にすることがいかに大きな恵みか分かるだろうと思います。もちろん、ロバートにとっても大きな恵みであったことは間違いありません。前にも申し上げましたように、ヌミノースと言っていいほどの体験を、ロバートはその時に必ずしているはずだからです。そのヌミノースのおかげもあって、「自分から物事を始めてもいいんだ」と子どもは感じるのです。
今日は、この先生のように子どもの不安をハッキリ言葉にすることになったことを、エリクソンは詳しく論じます。Toys and reasons p.37の第2パラグラフと第3パラグラフ。
しかし、もしその先生の言葉が、今回のように意義深いやり取りのある言葉になったとしたら、この先生の言葉は、個人的な(不安をハッキリ言葉にする)表現としてそうであるばかりではなくて、あらゆる世界に対する見方に対して重要な一定の変化をもたらす一つのお告げとしても、意義深いやり取りのある言葉となりました。その変化とは、その先生の生涯のおいても、この子の生涯においても、一方では、人権運動によってもたらされてきた変化ですし、他方では、近代教育によってもたらされてきた変化でもあります。子どもの生きている実感を引き出すことを日常生活の中で礼拝にするものと呼ぶものについては、後ほど論じることにします。互いに相手の下に立つ 聖書の神様がまします場だけが、発達を可能にし,発達する勇気を子どもに与えることができますし,2人が互いに豊かな心で相手の下に立ち,大事にし合うことを約束します。
ですから、遊びを読み解くと,内側に宇宙を作りだそうとする子どもの心と,仲間達の常に変わり行く世の中に対する見方を,発見的に繋ぎ合わせるものだ,と分かりますね。だからこそ,遊びこそは,ひとりびとりの子どもが,自分自身の時間と空間を創造するように導くものだ,として私は活用していますし,遊びこそ,世の中に対する,既存と,あるいは,進歩しつつある見方の時間と空間といつもやり取りする命があるものだ,と私は歓んで受け容れようとします。
積み木に、作った人の心の世界とその時間と空間が映し出されているだけではなく、作った子どもが属している社会の文化にある時間と空間も映し出されている。これはほとんど日常的な意識ではとらえられないものではないでしょうか?通常は、「単なるお遊び」と見なされて、あまり顧みられません。エリクソンはそこに、子どもの心の時空を見て取るばかりではなく、その子の社会の文化における時間と空間までも見る、なんと素晴らしく奥行きのあるものでしょうか?
今回ハッキリ出てきた、学校の日常を礼拝にする礼拝、すわなち、学校が子どもの礼拝を日常生活の中で行うことは、これまた、とてつもなく大事ですね。このロバートのその先生のやり取りの中に、その一端が現れていることを、指摘しておきます。
聖書の神様がまします場で,互いに大切にしあう日常生活の礼拝だけが,私が生きている実感を育て合い,それぞれが発達することを可能にします。
遊びこそ,聖書の神様が,全ての子どもに与え給う,恵みの宝物だとわかりますね。
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