≪私≫の中心には、≪守り続ける約束≫がある。ですから、≪私≫は一人では決してできないこと、必ず2人の人のやり取りがあって、初めて≪私≫ができてきますよね。
The Galilean Sayings and the Sense of “I”. The Yale Review. April 1981, p338の4行目から。
このように、子どものころ、父親に縛られた良心を育てることについて、あれこれと言うこともできるでしょう。それは、家父長的で、一神教の場では、さらに強まるでしょう。しかしながら、この文脈で私どもが抱く関心は、過去と災害前の政治的時空を、ヤーウェの神がまとめあげる力を、ある程度ハッキリさせることです。これまで見てきましたように、ヤーウェの神は、ひとりびとりがイキイキ、ピチピチ生きることの中心です。それは、ヤーウェの神が宗教的な中心におられるのと同じです。「そのとき、様々な民族が、知るでしょう、私、主が、イスラエルを聖別することを。それはイスラエルの民のど真ん中に、私の聖所が、世々限りなくある時なんですね」(エゼキエル書第37章28節)。しかし、この意味するところは、すなわち、ヤーウェの神は良心の中心にましますということであって、それは、一連の礼拝に参加することの中で、自分が肯定され、生きる価値が認められたと感じることができるし、自分が選びもし、また選ばれもすることも感じることもできるし、さらには、ヤーウェの神が激怒している最中でさえ、「神の国の到来」を感じることができる、ということです。
至福の時とはまさにこの瞬間のことでしょうね。そんな至福の瞬間が、≪私≫の中核にあるということは、覚えておくだけの価値があることでしょうね。なぜなら、生かされていることを徹底的に肯定されるからですね。ですから、≪私≫の中心には、徹底的な、生きることに対する肯定があることも覚えておきたい点ですね。
わっ
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