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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

いつでも叡智に希望をもつこと vs 「正しいこと」の押し付け 改訂版

2015-08-02 15:59:21 | エリクソンの発達臨床心理

 

 自己嫌悪のある人は、そもそも「自分そのものが上下2つに分裂している」ので、すぐに「人間を上下2つに分けるウソ」の毒牙にやられやすいんですね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p64の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 「最後の礼拝」は何を高齢者の舞台に仕込んでるのでしょうか? 私はそれを「philo- sophical 叡智を―大事にすること」だと考えます。と言うのも、ある秩序を維持したり、体と心がバラバラになっている時に秩序を守る時には、叡智を大事にすることは、いつでも叡智に希望を持つことを支持するからです。しかし、この対になる、上辺の礼拝になる危険は、dogmatism 「善意の暴力」です。「善意の暴力」は、強迫的に誠実さを上辺で装っても、不当な権力と結びつくところでは、「正しいこと」の押し付けになっちゃいますからね。

 

 

 

 

 ここも今の政権やら、学校教育やら、東電やら、東芝やらを考えると、非常にリアルな話ですね。今ほど独善的になっている時はないでしょうからね。それはその人たちに都合の良いことを「正しいこと」と称して、押し付けてくることなんですね。ですから、エリクソンの言うように、その「正しいこと」を押し付けている輩は、叡智のかけらもないのですから、こちらは、カッカとせずに、冷静に、息をゆっくり吸いながら、叡智を働かせていけばいいんですね。

 皆さんの叡智を結集して、アベシンちゃんと悪魔の仲間、原発、愚かな学校教育、東電などにストップを掛けましょう。そして、人間らしい暮ら、人間らしい政治、人間らしい教育を作り出しましょう。

 

 

 

 

 

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