自己嫌悪のある人は、そもそも「自分そのものが上下2つに分裂している」ので、すぐに「人間を上下2つに分けるウソ」の毒牙にやられやすいんですね。
The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p64の第3パラグラフから。
「最後の礼拝」は何を高齢者の舞台に仕込んでるのでしょうか? 私はそれを「philo- sophical 叡智を―大事にすること」だと考えます。と言うのも、ある秩序を維持したり、体と心がバラバラになっている時に秩序を守る時には、叡智を大事にすることは、いつでも叡智に希望を持つことを支持するからです。しかし、この対になる、上辺の礼拝になる危険は、dogmatism 「善意の暴力」です。「善意の暴力」は、強迫的に誠実さを上辺で装っても、不当な権力と結びつくところでは、「正しいこと」の押し付けになっちゃいますからね。
ここも今の政権やら、学校教育やら、東電やら、東芝やらを考えると、非常にリアルな話ですね。今ほど独善的になっている時はないでしょうからね。それはその人たちに都合の良いことを「正しいこと」と称して、押し付けてくることなんですね。ですから、エリクソンの言うように、その「正しいこと」を押し付けている輩は、叡智のかけらもないのですから、こちらは、カッカとせずに、冷静に、息をゆっくり吸いながら、叡智を働かせていけばいいんですね。
皆さんの叡智を結集して、アベシンちゃんと悪魔の仲間、原発、愚かな学校教育、東電などにストップを掛けましょう。そして、人間らしい暮ら、人間らしい政治、人間らしい教育を作り出しましょう。
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