アリストテレス論理学はむずかしい。ついてけるかな?(☺)
p68第3パラグラフ。
アリストテレス論理学とは反対は、「矛盾律」とでも呼んでいいものです。それは、AとAでないものは、述語Xとしては、お互いに排除しあうことはない、というものです。矛盾律は、中国哲学やインド哲学、ヘラクレイトス哲学、弁証法(対話法)では、主要なものです。そしてまた、ヘーゲル哲学やマルクス哲学にもなりました。矛盾律の一般原理を一番ハッキリ言ったのは、老子です。老子曰く「本当に真実な言葉は、矛盾する様に見える」と。(老子の先生の)荘子、曰く「1は1なり。1であらざれば、すなわち、1なり」と。このような矛盾律の定式化は、非常に前向き・肯定的ですね。「そはありて、かつ、あらざり」。もう1つの定式化は、消極的・否定的です。「そは、これでもなく、かつ、あれでもなし」。前者の定式化の思想は、老荘思想、ヘラクレイトス哲学、ヘーゲル弁証法哲学に見られます。後者は主としてインド哲学に見られます。
矛盾律も難しい。でもね、臨床は、ある意味、矛盾律の塊です。一見矛盾していても、それを捨てない。
昔、大塚久雄教授が、キリスト教信仰と無神論のマルクス主義哲学の間で悩んだ時に、内村鑑三に相談したことがあったそうですね。その時の内村の返答は、おおかた次のようなものでした。それは「キリスト教信仰も、マルクス主義哲学も、真理ならば、最初は矛盾しているように見えても、何時の日か矛盾なく一つになるのじゃないか?ですから、どちらかを捨ててしまわないで、両方大事にしたほうが良い」と。大塚久雄教授は、その教えを大事にしながら、信仰を生涯貫きつつ、マルクス主義哲学を一つの理論的武器としながら、「大塚経済史学」を確立したのです。内村の教えに間違いはなかったわけですね。
私どもが日々行っている臨床も、この内村の教えほど鮮やかでも、手際のいいものでも、決してないんですね。でもね、それでも、矛盾をどちらか捨てずに、矛盾のままで踏みとどまる。それがね、ロマ書の五章に出てくる「ヒュポメノー υπομενω 忍耐」だと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます