小さなものの世界にこそ、永遠はある子どもと不思議を共にするためには、大人の私どもは、「自由」な心が必要です。 『The Sense of Wonder 不思議を感じる心』から p76の冒...
大人と子どもの関係を支配する正義は、大人が忠実に、神様に忠誠を誓うみたいに従っている時、子どもにオートノミー自律の感じをプレゼントすることが出来ます。その時には、子どもが「悪いこと」をすることの中に「素敵なプレゼント」を見つける≪心の眼≫を育てていることが、大人の側に必要です。
今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.256の、第2パラグラフの、下から9行目途中から。
あるいは、ルターは≪疑い≫について、書いていますね。この≪疑い≫ってやつが経験されるのは、その子どもが訳の分からないことを求められて、一人ぼっちを感じる時に初めて体験する気持ちです。「その人は、Anfechtung≪試練≫に悩んでいる時には、自分は一人ぼっちにされたように感じます。神が怒りを覚えるのは、1人の罪人に対してだけで、神はその一人の罪人には、許して下さらない程の怒りを示します。その人だけが罪人で、ほかの人たちは全て、「正しい」わけですね。他の人たちは、その一人の罪人に対して、神の秩序を持ち出して、裁くのです。その一人の罪人に残されているのは、語りつくせぬため息くらいでしょ。ため息1つ、つけば、知らなずとも、聖霊様に助けてもらって、「(仲間はずれにされて、)何で僕だけ、怒られなくっちゃいけないの??」と大声で叫ぶことも出来ますから。
兄弟で喧嘩して、友達と喧嘩して、親や教員から、お兄ちゃんの自分だけ、あるいは、いたずら小僧の自分だけ怒られたときに、「何で僕だけ、怒られなくっちゃいけないの?」と口には出さずとも、その子が思っていることって、日常茶飯事でしょ。その時にその子が感じるのが、さらし者になった恥だけじゃなくて、疑いだ、というのは、臨床をよくよく知っているエリクソンならではですね。
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