見通しを持って、生きているのかなぁ? 改訂版希望の光 輝く見通し アベシンちゃんと悪魔の仲間たちのように、力に頼ろうとする者ほど、人を信頼できない人です。加藤周一さんが「熱烈な愛国者の多くは、隣人を愛せ......
もうひとつ、ヘンリー・ナウェンの『魂の向き』Spiritual Direction p.120から。
やり取りのある集団は、お互いに相手を、「77回」許し合う気がなければ、成り立ちませんよ(『新約聖書』マタイによる福音書18:22)。赦すことは、やり取りのある暮らしを結び付けてくれます。お互いに相手を許し合えば、良い時も悪い時も一緒でいられますし、お互いに相手を大事にする関係を育むこともできますものね。
古代ユダヤの時代は、食事をするのも、いろんな作法ややり方がありました。一緒に食事をしても良い人も限られていたんですね。『新約聖書』の福音書にも良く出てきますけれども、貧乏な人々、当時は、「罪のある人」「まともな暮らしができない奴」と蔑まれて、一緒に食事をしたらいけない連中だと見なされていました。「罪深く」「許されない存在」「どうせ地獄行の連中だ」という訳です。そのことを知っていたら、このナウェンさんの言葉も合点が生きやすいでしょ。
また、コミュニティ、コミュニケーションなどの源の意味は、この「飲み食いを共にする」という意味であることを知っていたら、このナウェンさんの話が、さらに分かりやすくなりますよね。
でも、今の日本で、この「公式」は当てはまりますでしょ。日本では「狭い身内」「タコツボ型の身内の組織」の「内輪」だけが、インナー・グループですから、それ以外は、「よそ者」。わざわざ連絡網を、四角い枠で何重にもくくって、「内」と「外」をハッキリ示す連中もいますよ。「人類を2つに分けるウソ」に猛毒を知らない輩です。
「人類皆兄弟」、「みんなちがって みんないい」となるためには、ナウェンさんがここで示してくれているみたいに、許し合うことが不可欠です。許し合うから、やり取りが出来るんです。ですから、許し合うことが全ての始まりです。
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