イエスの本物の言葉を探すのは、本物の信頼を自分のモノにするためでした。
p322の下から4行目から。
私がこのことを強調するのは、イエスのいくつかの言い伝えを顧みることと、私にとって、つまり、ユダヤ・キリスト教文化圏の1人の現代人であり、1人の精神分析家として、「本物だ」、そう、「本物らしい」と感じる内的な論理を指摘する際に、精神分析家の資格を、ささやかながら、活用しなくてはならないからです。しかし、そうするためには、私はまず、イエスと当時のガリラヤの人々を、ユダヤ教の地理と歴史の中で位置づけなくてはなりませんし、そのあとでは、歴史研究を、もっと現代的な研究とすり合わせなくてはなりません。その現代的な研究とは、心理学と神学の境界線上にある、すこぶる重要な現象です。私はそれを、≪私≫という感じ a sense of " I "と呼んでいます。≪私≫という感じは、意識と、言語を持つ被造物に与えられた、最も自明でありながら、それでいて、最も捕えがたい特性です。この現象を取り扱った心理学者は何人かいますが、私は適宜、フロイトの初期の言葉を参照することにしましょう。
≪私≫という感じ、言葉になる部分を含みながら、言葉にならない無意識の部分にも渡り、しかも、意識の中心でもある。しかも、「私は…。」と話すときの「私」でもある。日ごろ、そんな≪私≫という感じのことなど、考えることもないでしょう。しかし、その≪私≫という感じを問うことは、深みのある人生と、深みのある悦びを、日々味わうためには、エッセンス、必要不可欠なんですね。
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