エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

≪信頼≫を打つ壊しにするもの

2014-09-28 06:09:42 | アイデンティティの根源

 

 大人の成熟って、いいですね。でも「物事を見抜く洞察力」が最初に来るのが更にいい。まるで、丸山眞男教授のような「物事を見抜く洞察力」を、身に着けたいものですね。それは、「他者感覚を磨く」ことにも通じているはずでしょ。ですから、力のあるものの「ウソとゴマカシ」を見抜くと同時に、弱い立場の人ひとりびとりの「声なき声」を見抜く力でもありますよね。

 p350の1行目途中から。

 

 

 

 

 

「本能的な従順さ」に関して申し上げれば、これも、大人の側の、子どものポテンシャルを引き出す者としての本能と、やり取りをすることを求めています。しかし、これは今でも重要な点ですし、イエスの時代にも重要な点でした。単に従うことを強制したり、子どもが本来同調しやすい傾向にあることに心配りをしなかったりすれば、反抗的に言うことを聞かないことになるか、たくさんの子どもが強迫的に「良い子」を演じるようになるか、のどちらかの心向きになることは、ほぼ間違いないでしょう。そういった心向きは、結局は、細々とした細則に強迫的に従う儀式主義を他の人と一緒にやる羽目になりがちです。これはイエスが信頼にとって危険なこととして繰り返し繰り返し言っていたことです。

 

 

 

 

 

 ここはまるで日本のことが言われているみたいでしょ。今の日本の小学校では、エリクソンのご指摘そのままなんですからね。たいていが、「大人の言うことを聞かない子」か「良い子」を演じる子なんですよね。「大人の言うことを聞かない子」の中では、暴力的な子だとか、クラスから出て行ってしまう子だとかは。少数派ですね。「大人の言うことを聞かない子」の大多数は、大人が見ている時には、勉強したり、ルールに従ったりしてはいるけれども、大人の眼が離れている間は、勉強もルールも「関係ないや」という子どもです。またこのタイプは、限りなく「良い子」を演じている子に近いんですよね。「良い子」を演じている子どもでも、大人が見ていない時まで、「良い子」を演じているのは少数派になってしまいましたからね。昔はこのタイプの方が多かったように思うんですけどね。子どもに対する負荷が掛かりすぎてんですね。大人が見てない時まで、「良い子」を演じているゆとりが、子どもにもやっぱりない。大人がゆとりを失っている証拠です。大人に≪信頼≫がないから、子どもにいっそう≪信頼≫がなくなっちゃう。

 大人もそうでしょ。同調主義の日本人。組織や権力に「NO」とは言えない。自分が損しちゃうもんね。大人が、上司や権力が見ている時に「良い子」を演じているわけですから。見てない時には、「旅の恥は掻き捨て」ですし、組織や上司が「やれ」と言えば、「ウソとゴマカシ」を平気でやらかす。そんなんじゃぁ、子どもの良い示しになるはずがないばかりか、「悪しきモデル」でしょ。

 ですから、宮田光雄先生の『われ反抗す、ゆえにわれら在り――カミュ『ペスト』を読む (岩波ブックレット) 』が重要ですね。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日常と非日常 | トップ | 規律は強制できない! »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿