民族の独立と個人の独立。これは切っても切れない関係にあります。
日本の外交がアメリカ追従以外にはできないくせに、中国や北朝鮮に対して、否定的なことしかしないのは、国家として、民族としての独立があいまいだからですね。平和憲法を活かした外交をしようとすれば、シリアやガザの状況に対して、いち早く和解を促すような外交努力をするはずですし、中国や北朝鮮に対して、もっと謙虚な外交を展開するはずです。
そう言う平和憲法を活かした外交を日本がしていくためには、私ども日本人ひとりびとりが、日常生活の中で「平和を作る」人でなくちゃぁ、ならないでしょ? それは、「人間を上下2つに分けるウソ」からは自覚的な離れて、「人間皆兄弟」、「みんな違って、みんないい」を自覚的に生きる毎日を過ごすことです。つまりは、日常生活が、隣人をお互いに認め合う生き方に必ずなるはずですね。どうですか?
p335の第2パラグラフ。
パレスチナ史をこのように素描すると、ハッキリしてくるのは、ユダヤの民が、たくさんな、時空に関する、破壊的な見方と共に、生き残らなくちゃならないし、生きるようなにらなくちゃぁならない、ということです。聖書には飽き足らないほどに褒め称えた、栄光の過去があるのにもかかわらず、生々しい歴史的記憶のために、領土の状況に思いを致さないわけにはいきませんでした。それは、ユダヤの民が、大国と、これまでも強く申し上げてきたような、大国の軍事行動によって、代わる代わる侵略の危機に陥ってきたことです。1人の英雄の強烈な歴史にもかかわらず、なんだかんだ言っても、民族を守ることが「全くできない」、ということです。中心地と内的な自律心のシンボル、すなわち、神殿、の自由が当然とみなされるのは、ローマ帝国が良しと認めてくれた時だけなんですね。神殿は現実には、ローマ帝国の(中心地だはなくて)「端っこ」にあったのです。こういった、今列挙したユダヤの民の状況は、あらゆる次元の≪私≫という感じを台無しにしたことは、火を見るよりも明らかです。≪私≫という感じは、どんな集団でも必ず個人に与えるものなんですね。ですから、このような民族は来るべき世紀に生き延びるチャンスを手にしながら、自分を確かにすることなどできなかった、と結論を出したい人もあるでしょうね。
背筋がゾクゾクするような、エリクソンのリアルな記述ですね。ユダヤの民が、大国のはざまで、様々な苦難な歴史と現実を生きてこなくちゃぁなりませんでしたでしょ? そう言う集団は、ふつうは、集団に所属する個人に、自分を確かにする道を示すことなぞ、できるはずもない。
それじゃぁ、今の日本はどうなんだ? ということですね。
さっきまで、壇蜜さんの「青春ブレイクスルー」の録画を見ていたんですね。どうしても「ペリリュー」の番組の優先順位が上でしたから、ライブではそちらを見て、その後東電社員だった人の番組を見てから、壇蜜さんになったわけですね。
壇蜜さんの番組、予想以上の出来でした。その番組では、斎藤支靜加(しずか)さん(壇蜜さん)は、大学を出ても、専門学校を出ても、「あんたは要らない」!だったというんですね。日本と言う集団が、個人に与えるメッセージを的確にこの番組は拾ってくれていましたよね。
日本人は、日本国憲法と言う立派な財産があるのにもかかわらず、それをほとんど使わずに、愚かしい政権が言うことを鵜呑みにしている結果、貰うメッセージと言ったら、「自分の頭で考えてはならない、大した頭もないんだから」、「お前は、生きている価値なんぞ、ないぞ」「あんたは要らない」ということです。非常に権力にとって都合のよいものになっています。権力は、個人は要らないからです。
それに抗するためには、権力に対して、自覚的に「NO」を言いつつ、近所では互いに認め合う関係をこつこつと積み上げていくことに、そういう生き方をすることに決まっています。
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