エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#オートノミーの限界 と #不思議な道

2024-10-07 07:31:21 | エリクソンの発達臨床心理
「発達トラウマ障害 Enpedia」 
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、
MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。
としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。
それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実が大事。 
 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 p.92のブランクから。

  幼子の時期 と 良し悪しが判ること
  言葉 と 善悪の境界線

 人間関係の第2の根っこになる要は,「judicious 良し悪しが判る」と申し上げるのが一番いいと思います。なぜならば,judicious 良し悪しが判る」という言葉は,ラテン語の「jus」(正しい)とラテン語の「dicere」(話し言葉)を組み合わせているからです。ユーロック・インディアンの食事の毎日礼拝で判ったことは,どう振舞うのが善いのかを示すお手本です。どう振舞うのが善いのかを示すお手本は,「いいよ」と「だめ」という話し言葉と声色で示されるのは間違いありません。「いいよ」と「だめ」という話し言葉と声色によって,善悪,浄不浄を「見分けること」は,本当の自分が育つ中で確立されますし,眼に見える成文法のみならず,内なる良心の声にも立ち返ることになります。なんやかやで,judicious 良し悪しが判る」ということは,いつでも人間らしい礼拝では,欠くべからざることになります。と申しますのも,須く礼拝すべては,最後の審判に至るまで,絶対的に,良しとされる者良しとされない者峻別する からです。
 この2番目の親身な関係になる毎日礼拝が私を育てる源は,人生の2番目の舞台にありますが,対人関係で「自分ならではのやり方」が急に育つことに特色がありますね。ハイハイし,しまいには,立つ力が付きますから,自己信頼が育って,それまで許されなかったことにチョッカイを出したくなります。もしも,最初の舞台に,すなわち,赤ちゃんの舞台には,「誰も奪えない希望」の土台があるとすれば,第二の舞台,すなわち,幼児期前半 に根っこがある 生きる力は,「歓んでやる意志」だと考えますね。知的に育ち,筋肉や運動も育って,世話をしてくれる他の人たちとの関わりも増えて,条件さえよければ,自分が歓んでやる意志」を示したり,歓んでやる意志」を示せるし,示しても善いと判る事が,とっても嬉しくなります。ですから,これが,歓んでやる意志を示せる自由に夢中になる人間の気高さの元になります。歓んでやる意志を示せる自由は,自分の言い分の正しさを競う舞台に 様々な判断が一致するかを確かめる 毎日礼拝を探し求め,毎日礼拝において試練を受けます。しかしながら,真っすぐに立つと,人はあらゆる角度から見られますし,背後からも見られることになります。背後は,自分の目が届かないところでしょ。2番目の舞台で身に着ける オートノミーこそは,私は,頑固さから生まれて、内省によって軌道修正した意思のある,1個の人間だ,と感じる実感です。そのオートノミーも,目上の人たちに見張られて,いろんな名前,獣の名で呼ばれているのが判り,限りがあると気づきます


 私どもキリストを信頼して生きる者は,キリストを信頼して生きる時,感じたままに生きなさいと励まされます。しかし,一方でこの世では,限りがあることにも気づかざるを得ませんね。そのとき,自力に頼るのではく,下に立つヒュポメノーに徹していますと,ロマ書の5章3節~5節にあるように,不思議に,道は開かれます
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