イエスは群衆に話すときには、譬え話を用いていました。その目的は一体何だったのでしょうか?
p326の第2パラグラフ。
ここで私は、古いルターの聖書に頼らなくてはなりません。今後も時にはそうします。そのルターの聖書は、ドイツ語聖書ですが、知的に決め難いことを詩的に解決していることが多いように思われます。福音書記者たちがはっきり分からなかったのは、イエスがたとえで話すことの意味を、群衆か感じ取る力があると、イエスがみなしていたのかどうか、ということです。マタイは(弟子たちに向って、確かに)イエスに言わせています。「ですから、私はあの人たちに譬えで話すのです。なぜって、あの人たちは、見ていても見えず、聞いていても聞き取れず、理解もできないからです。あの人たちによって、実際問題、イザヤが予言したことが出来事になりました。『あなたたちは、聞いても悟らず、見ても気づかない。というのも、この人たちの心は鈍いからですし、その耳は遠く、眼は閉じているからです。この人たちは自分の目で見ることもないし、自分の耳で聞くこともないし、心で理解することもないので、私は彼らを癒すことができません』と。しかし、あなたの目は幸い、見えるからです。あなたの耳は幸い、聞こえるからです。本気で私はあなたがたに言います。多くの預言者たちと義の人たちは、あなたがたが見ているものを見たいと願い、見ることはできなかった。あなた方が聴いていることを聞きたいと願い、聴くことができなかった」(マタイによる福音書 第十三章13-17節)。
感覚が鋭いことが、癒しと救いの条件なんですね。感覚が鋭いことは、その感覚が無意識にも相わたるからですね。
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