西村秀夫先生。私の魂の恩師です。
昨日、12月20日は西村秀夫先生の誕生日。1918年のお生まれですから、ご存命ならば、97才。実際は、亡くなられて、今年で10年になります。私は、今から30年前の夏に、集会に参加することを許されて、その9月から実際に集会に参加するようになりました。
いま手元にある、すぐ出てくる資料で、一番古いものは、1991年のものです。その中に、西村先生が、「内村鑑三不敬事件100年」シンポジウムに参加した感想文があります。
西村先生は、内村鑑三が教育勅語にの対する礼拝を拒否したのは、神以外を礼拝してはならないとする、モーセの第1戒を守ったことだといいます。そして、この「火の試練」によって、内村鑑三の神様への信頼も「焼き清められた」という訳ですね。確かに、内村鑑三が体験したみたいに、国家権力から直接弾圧を受けて、職場も妻も友人も失う試練を体験することは稀かもしれません。しかし、各々が、小さな「火の試練」によって、神様への信頼が焼き清められるものだと思います。
権力と闘うことは、弱い立場の人を、人間として尊重することだ、と言うのが、西村秀夫先生の基本的なスタンスです。その点を、いつでも心していたいと願う私です。しかし、西村秀夫先生の真骨頂は、そこにあるのではありませんね。この先生の特色は、権力と闘うことと、自分が自己中心に傾きやすい質と闘うことがパラレルであった点にある、と私は考えています。この後段がない場合、権力と闘うといっても、薄っぺらな場合が多いんじゃないかしらね。偽物でも、言葉だけの権力批判はしてますからね。
偽物と本物を峻別するのは、西村先生がそうであるように、自分が自己中心になる質であることに対する気付きがあることと、自己中心を焼き尽くす神に対する畏れです。
この気付きと畏れとを、与えられながら、生きたいものですね。
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