エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#真実を忘れがち

2022-08-15 05:21:43 | エリクソンの発達臨床心理
 
#一体感はどこから?

 #志のないリーダー #志の心根を大切にした生き方 #聖書の言葉 #単独者の恵み #聖書の神様のギフト #聖書の言葉 #1人豊か  #大休み   マハトマ......
 

「発達トラウマ障害 Enpedia」
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、

MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。

としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。

それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実が大事。

 

 
 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 
 p.25から。
 
 
 
 
 
教会生活そのものの中に、聖書の神様のスピリットが一巡することを蘇られるために,いまはすたれてしまった様々な互いに相手に心響かせる昔ながらの習慣を,考えてみてくださいね。もっと人のためになり,もっと陽気で楽しい関わりを育てる時には,「人々が気付かぬ内にいつもしている駆け引き」を露わにしようとする様々な振る舞いと言葉遣いもあるもんです。「駆け引き」と「遊び」という言葉を両方使っているのは,身近な人間関係では,「取引」を大なり小なり馬鹿にして裏切っています。勝てばズルもやむを得ないとする(性生活や宗教生活でも、セラピーでも仕事でも)立場を大手を振って唱道する者も,心からの歓びを得ようと骨を折っておっても,心からの自由も得られないことに疲労困憊していることを、ずっと隠すことはできません。薬物の後遺症も言うに及びませんが、薬物の後遺症が遊び場みたいに,生きている実感に(訳注:残念ながら)必要な場合がとても多いんです。
 このように幅広い出来事の中で特に問題なのは,陽気で楽しいイメージと現実の実感とがお互いにピッタリくることでしょう。それに,実感そのものの確かさと遊びそのものの歓びの確かさがお互いにビッタリ、ということです。このように一心同体になった大切な真実は,陽気で楽しい遊びと遊びから生まれることが私を創造するし,聖書の神様のいのちが一巡するからこそ、毎日礼拝ができる,という私がお示すしている,もう一つの見通しを良しとすることになるように思います。
 一つの条件。少し前、素晴らしい北京放送を「マクルーハン的」と呼んでおりました。私が認めなくてはならないのは,ここで示されている「政治家が現実を隠ぺいするウソ(訳注:ベトナム戦争当時のアメリカで広く使われた言葉)」は,人間性の変化という一大事にとっては,取るに足らないことにすぎませんが,結果として「情報を伝えるメディアのあり方」を大きく変えてしまったわけです。あるいは,聞くところによりますと,マクルーハンは,「即席の電子情報が、どこでも発信源となり,発信できないところが何処にもない、新たな生音を発したり共鳴したりする場になっています」と最近言っているとやら。この情報の受け手がメディアの言いなりになる空間こそ,「西洋人から、自分を失わずにいることや文化的な遺産を奪う」人々をバラバラにするものだと、マクルーハンは信じて疑いません。科学技術の目まぐるしい進歩する世界や人の暮らしの変化がもたらした無限にあるように見える自由に目を奪われている知識人とは反対に,私のように心が自由になるお世話をしている者にとっては,人間に与えられたいのちが(訳注:目の前で)一巡し,生活習慣も糺されていきますと,中心軸の自分が育ち,感謝感激できる恵みの方に心魅せられます。中心軸の自分が育ち,感謝感激できる恵みは,科学技術の時代にもやって来て,いのちを実感する場の中で、2人がピッタリ一心同体になって,育つことに「大事な」一体感を持ちたいという,何にも代えがたい強い願いがあることを示しています。このような,一体感に対する人間の最深欲求は,ほとんど変わることがない,と言うことを私どもは申し上げておきますし,実感は,陽気で楽しく出来たという実感とともに,世代間に受け継がれていくものが,時代ごとに新しいものに関わる関わり方で,変わるんじゃないの?と疑う人もいるでしょう。こういった解釈をする中で,私が別の観方をしようと思いますのは,人間が心から歓ぶ遊びは,いのちが一巡して,本当の私が創造される初めに生まれるという点です。(単なる隠喩を超えて)心から歓んで遊ぶ子どもと心ならずも建前を演じている大人との関係はどんなものですか? 建前を演じることと信頼して生きていることとの関係はどんなものですか? 正統な劇場と政界や戦闘地域の関係はどんなものですか? 陽気で楽しい見通しと真面目な見通しの関係はどうでしょうか? それから,子どものおもちゃと大人の賢慮との関係はとうでしょう? ここで私はたくさんの分野に触れることになるのですが,私が申し上げることが出来るのは,子どもの遊びと患者の夢を観察した一連の観察が教えてくれた,いまここを共に見ることに対する最深欲求が人間にはある,ということだけなんです。
 自分が創造される初めに広く遠出するために,政界から話が離れる前に,この本の第一幕を終えるに当たって,驚くべきニュース解説者に触れたいと思います。故ウォルター・リップマンこそ,私が判りたいと願っているテーマを今から50年も前に系統立てて明確にした人です。彼はいまや古典となっている『世論』の中の,「私どもの頭の外にある世界と頭の中にある様々なイメージ」という名の章で,「様々な意見がいかに〈世論〉,国家の意思,集団心理,社会の目的と呼ばれるものに結晶化するのか」を善く調べたんです。しかも,リップマンは,心を自由にする術を,いまここでとても興味深い形の課題としたんです。リップマンが主張しているのは,「心を自由にする務めの者は,身の回りのことは解りうるとほぼいつでも思い込んでいますし,解らない場合でも,少なくとも,曇りのない知性があれば,耐えられると思い込んでいるものです」ということです。
 
 「心を自由にする者は,環境Xと呼ぶものにピッタリ適応しているかをよく調べます。評論家は疑似環境Xと呼ぶものにビッタリ適応しているかをよく調べます。」
 
 それ以来,政治的なイメージ,「心の傷」,政治的な雰囲気や政治感覚や政治的誤解,政治とウソの政治に関する記事や本がたくさん世に出ています。「心から自由になるのを体験した」私の友人が育んだ心から自由になる見識によって明らかになったのは,想像力が「世論」という掴み処のない現象を組み立てるのに役立つ,ということだけではなく,公の世界が,実は,本当の自分が生まれる始めとひとりびとりの内的に促すいのちにまで影響している,と言うことでしたね。実に素晴らしいことは,ウォルター・リップマンが50年前に,すでに次のような指摘をしていることです。
 
「実際に身の回りのある環境は,大きすぎますし、複雑すぎますし,つかの間過ぎますから,身の回りに起きていることを直に手に入れることなど夢のまた夢です。その環境の中で活動しなくてはなりませんが,その環境に対処する前に,その環境を扱いやすいモデルに則って組み立て直さなくてはなりません…。」
 
 
 
 
 周りで起きていることを環境というならば,リップマンの指摘通り,その環境は掴み処がありません。
 私どもは,身の回りに起きていることの一部しか判っていないのが現実ですが、一部しか判っていないという真実を忘れがちです。
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